負の遺産

□ロマンス
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第12章 雨の庭 

「バレンヌは意外と雨が多いのですね」
トバから戻って約半月、すっかりバレンヌにもなじんだ海女の少女、ナタリーが、
曇り空を見上げて言った。
「今は雨期だからね・・。私の生まれた日も昼間は雨が降っていたらしいし」
17歳のバレンヌ皇帝セレンは、つまらなそうに寝台に寝そべったまま、大きなあくびをした。
 少女らは、生まれも立場も違うが、すでに昔からの親友のようにむつまじく日々を過ごしていた。年が近いだけに、彼女らは共通する話題が多く、また、ナタリーもセレンも驚くほど人を疑わないので、お互いに一緒にいる時間は楽しかった。
「陛下のお名前はセレネーネ様とおっしゃるから、月の女神様の御名を頂いたのだと思っていました」
ナタリーの意外そうな表情に、セレンは首を傾げた。
「そうだよ。どうして不思議そうにするんだ?」
「いえ・・。雨が降っていたと、お聞きしたので、雨ならば月は見えないでしょう?なのに月を連想されたのが少し不思議で・・」
セレンは身を起こして、ああ、と相づちをうった。
「私が生まれたのは夜だったから。夜には雨がやんでいたんだ」
「そうか。それで、月が見えたんですね」
実のところ、セレンはその辺の下りを知らない。自分が生まれたときのことなど記憶している方が珍しいだろうが、今の今まで、彼女は自分の生まれにまるで疑問を持たなかったのだった。何しろ、父と母の子であるという確証は100%あるし、名前にしても生まれたときから呼ばれているだけに違和感を持たなかったし、取り立てて難産したわけでもないので、両親が彼女の誕生について思い出したように語ることが少なかったのだ。
「だと・・思うんだけどな・・詳しいことは知らないよ」
完全に起きあがって、寝台から床に脚を着いた彼女は、ナタリーのいる窓際によって同じように外を眺めた。この時期特有の、今にも降り出しそうな曇り空が広がっている。自分の生まれた日の空もこうだったのだろうかと、思いをはせながら、父にセレネーネと名付けさせた空を想像してみる。
「あ、いい香り」
ナタリーが、不意にセレンの上着に鼻を寄せた。
「ああ・・香水、つけてるから」
どういうわけだろう。この娘は時々こうやってセレンのどぎまぎするようなことをやってくれるのだ。セレン自身も、彼女がしたことに対しては、必要以上に意識してしまうきらいはあるのだけど。
「へえ。珍しい。どういう気分の変化ですか?」
平素自分の身を飾ったり、女性らしい振る舞いを好まない彼女であるから、香水をつかうという非常に女の子らしい振る舞いは珍しく、新鮮であった。
 セレンは照れたように赤くなって、少し上着に鼻を寄せてみた。
「いや・・ディアナとか、母上とか、香水してて・・すごく素敵だったから・・私もしてみようかなって・・」
「いい心がけ。セレン様は可愛いんだから、お化粧とか、アクセサリとか、もっと楽しまないと損ですよ?・・薔薇の香り?」
「そう・・。薔薇・・・おかしい?」
「ぜんぜん。すっごく似合ってる」
なんだか、自分の方が年上なのに、年下みたい・・。
セレンは、ここ数日思っていた疑問を口にしてみた。
「ナタリーの方が少し年下なのに、私の方が年下みたいだ。ナタリーは、大人なのか?」
ナタリーは、すぐにこのわがままなお姫様が、帝国兵から妹よろしくかわいがられていた彼女が、お姉さんを気取ってみたいのだということに思い当たった。セレンが言ったとおり、ナタリーはセレンよりも遙かに精神面では大人なのだ。
「そんなことありません。子供ですよ。知らないこともいっぱいあります」
セレンは容易には信用しなかった。ナタリーの知らないと、自分の知らないには、天と地ほども隔たりがあることを、ここ数日で思い知らされていたからだ。
「たとえば?」
セレンは唇をつきだして、ナタリーの返答を求めた。賢いナタリーは、しばらく考えて、何かに思い当たったように笑った。
「そう、愛の告白の仕方とか」
「あ・・愛の告・・・」
セレンは思わず口に手を当てて面食らった。顔を赤くすることも、彼女と知り合ってから数十回繰り返している。
「あとは・・・キスの仕方・・とか?」
「き・・・っ」
「それから・・・もっとすごいこと」
「も・・もっとすごいこと・・・・?」
尊大な皇帝陛下は、あわてて咳払いして平静を装った。
「あ・・愛の告白なんて、好きですっていえばいいんじゃないのか?」
好きです、ひねりはないが、これほどダイレクトに自分の気持ちを相手に伝える言葉もないのではないか。セレンは詩人や芸術家ではないから、言葉を飾ることを好まなかった。
「じゃあキスの仕方は?」
セレンらしい、率直で気持ちのいい返答だと内心でほほえみながら、ナタリーは次のもっときわどい質問を降った。
「き・・・キス・・・の仕方・・・って・・いっても・・・」
「なさったことがないから解らない・・?」
「いや、あるんだけど・・夢中だったから・・・」

セレンははっと口を手で塞いだ。
「え・・・?」
わずかに沈黙が流れた後、ナタリーが意外そうに口を開いた。
「陛下・・男の人とおつきあいなさったこと、おありなんですか・・?」
うかつだった。弾みで答えてしまったとはいえ、自分の考えのない行動を呪わずにはいられない。
「いや・・・その・・・おつきあい・・・なんてしてないけど・・その・・」
まさか、言うわけにはいかない。その相手が誰なのかなんて。
ナタリーは、心底困っているセレンに、慌てて首を振って言った。
「おつきあいがあったって、昔好きな人がいたっていっても、全然おかしなことじゃないですよ。だって陛下は女の子なんですから、男の方と恋愛して何も悪いことないんですから」
そして、一呼吸おいて、思いついたように付け加えた。
「あっ!!もし相手が女の子だったとしても、恋愛は自由ですから・・・」
「ナタリー・・」
セレンはゆっくり深呼吸した。話してしまってもいいのではないか?相手の素性さえあかさなければ、構わないのではないか・・・。そう考えて、首を振った。
「私は、皇帝になるとき男も女も捨てて、皇帝になろうって決めたんだ。このバレンヌを、世界を、担っていく役目を負った人物が、自分の恋とか愛とか・・・考えてたら・・やっぱりいけないと思うんだよ」
「どうして?セレン様は皇帝陛下である前に一人の女の子よ?恋をして、結婚して、子供を産むの。それのどこがいけないの?」
「そんなこと望まれてないからだよ」
セレンが言った・・のだとは、ナタリーは思いたくなかった。彼女の中に存在する、数人の皇帝がそれを言ったのだと、彼女は思った。
「私には、皇帝としての義務と責務がある。この世界を未来へ導いて、七英雄との戦いに終止符を打つ。結婚とか、子供とか、そんなものは・・私が皇帝なくなってからすればいいことだよ」
「そんな・・」
ナタリーはうろたえた。あの明るい笑顔を見せた少女が、優しく笑ってくれた少女が、国の未来のために自分の未来を投げ出そうとして、その女性であることすら捨てようとしているだなんて・・。信じられなかった。
「好きな人、いたんでしょう?」
「いるよ」
現在形で帰ってきたその答えに、ナタリーはさらに憤った。
「キスしたんでしょ!?」
「・・したよ」
ならばなぜ・・とは、いえなかった。それはあまりにも酷な質問だったから。
「・・私を、女でいさせてくれたから・・いいんだ」
ナタリーはふと顔を上げた。セレンは、窓の外を向きながら、誰にでもなく呟いた。
「あの人は、私が女だって認めてくれたから・・それでいいんだ」
胸がたまらなく痛んだ。ナタリーは立ち上がるとセレンに一礼し、頭を下げたままわびた。
「変なことを聞いてしまって・・ごめんなさい」
セレンは小さく首をふった。
「いいよ。気にしてない」


ナタリーはすぐに退室した。あの空間に居続けるのがたまらなかったのだ。
「ああ・・」
彼女は、誰にでもなく呟いた。
「なんてことかしら・・私は、きっとあなたの役に立てると思っていたのに・・」
彼女が見ているのは、虚空。この城の、誰とも違う、誰の視線でもない場所を、彼女は見ていた。
「私のしようとしていることは、あなたに無限の悲しみをもたらすこと・・」
見えてしまったのだもの・・。あなたの、一番大切なもの。それがなんなのか・・。それが、自分にとって何を意味することなのか・・・。
「どうすれば・・ああ・・違う・・私に選択権などあるわけがないの・・」
虚空に漂う、醜い闇の固まりが、彼女の周囲を取り巻いた。薄気味の悪い濁った空気が、彼女を満たしていた。
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