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□桜散れど散じぬ花
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桜が満開だった。太い幹から伸びた無数の枝に花を咲かせた桜は見事で、見る人の足を思わず引き止める。ひらひらと舞う花弁が、なんとも美しかった。桃色に染まった土の上で、島左近は、視線を桜から隣に立つ主の顔へと移す。春とは真逆の雪原の様な銀一色の髪に花弁が一枚、色を付けた。左近は桃色の花弁を付けて隣に立つ主の姿に、桜よりもよほど美しいと。思わず見惚れ、息を飲んだ。己の胸の内に秘めた思いが、ゆらりと顔を覗かせる。従者が主に抱くべきではないそれは、きりりと胸を締め付けて存在を主張してきた。息苦しさを振り払うように、左近は再び視線を桜へと向ける。幾重にも重なる枝の隙間から、遠く僅かに空が見えた。







昼間の刻が、だいぶ長くなった春の日。桜は散り、夏の気配が訪れていた。

「久しぶりだな。左近」

背後から呼びかけられた左近は、知った声に首だけをわずかに後ろへと向けた。朗らかに人懐こい笑みを浮かべる家康が左近の方へと歩み寄って来る。

「三成はいるか?」

主の名が家康の口から紡がれたことが不愉快で、左近は親指を立てて一町程離れた部屋を指差した。

「自室にいますよ。なんか用事っスか?急ぎじゃないなら俺が聞きますけど?」

あまりに礼を欠いた言動で迎えられた家康は、左近よりも上の身分だった。正確には主である三成よりも上だ。それを知らない左近ではない。また、そんな事をいちいち気にする人物でもないことも知っての上である。案の定、家康は特に腹を立てることもなく左近に礼を言った。その寛大さが、己の器の狭さを露呈させたような気にさせて更に左近を苛立たせる。

「特に用は無いんだが、久しぶりに顔が見たくなってな」

そんな口実にもならない口実が罷り通るのは、この家康くらいだ。一つ二つと言葉を交わして、左近は青年の背を見送った。止める術など無い。

その日の夜。左近は一人、縁側から足を放り出して座していた。何処かの草陰から虫や蛙が、聞く者を楽しませる声を運んでくる。その声に耳を傾けながら、横に置かれた小さな盃に、左近は酒を注いでいた。白く、とろりと濁った酒は、鉄火場にいた顔なじみの男から貰った麹の多い安酒だ。口を付けると米の甘味が、ほんのりと広がる。飲み干した盃に再び酒を注いで、また飲み干す。幾度か繰り返して、左近は注いだ酒に口を付けずに盃を覗き込んだ。盃の形に沿って満ちた酒は、白い満月を思わせる。左近は、その酒を飲まずに盃を傾けた。代わりに土が酒を飲み干していく。そして徳利に残った酒も土に飲ませた。心地よい夜の調べも、酒も、左近の胸の内を晴らしはしなかった。夜空を見上げて、左近は物思いにふける。己の行先は明るいと、左近はそう確信していた。豊臣に、石田軍に士官して得たものは多く、仕えるべき国、軍、主。一度は失った居場所を左近は再び手に入れたのだ。しかし、そんな順風満帆に思える左近の心中に、唯一暗い影を落とすもの、それは今宵遥か空の上で、孤高に輝く月にも似た己の主だった。

「三成様」

ぽつりと、主の名を口にしてみる。虚空に散じた名前は、酒とは別の熱を含んで重く左近自身に降り注いだ。左近にとって三成の存在は憧れだった。あの生き様を羨んで憧れた。己もあの様に忠義を尽くして生きたいと願った。だが今は違う。己の内に宿るものが、憧憬や忠義だけではないこと知っている。慕っているのだ。従い守るべき主に恋慕の情を寄せて。どれだけ犬が月に恋焦がれようとも、決して届かないと知っていると言うのにも関わらず。いくら左腕に近しと、のたまっていても、月にとって地上の犬など、何百何千の内の一匹なのだ。もし、唯一無二の存在になれるとすれば、それはきっと、燦々と輝く太陽だけが月にとっての唯一無二であれるのだろう。左近の脳裏を家康の顔がよぎる。夏の日差しの様に強烈で、春の午後の様に暖かく。それでいて、物悲しい秋の日差しの様な、そんな太陽の様な男だ。

「それでも、俺は…」



――貴方を、お慕いしています。

最後は蚊の鳴く程の小さな声だった。もはや声になっていたのかも紛らわしい程に小さな声は、深く左近の胸を抉り出した。


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