□縁
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「信長ー。信長、出ておいでよ」

時は昭和中頃、戦時中も耐え抜いた古い旅館の息子、神宗一郎は明日この部屋を去る。
旅館の離れにひっそりと設けられた宗一郎の部屋。
誰も居ない筈の部屋に戻り電気を付けるなり、その部屋に向かい誰かの名前を呼ぶ。
勿論そこに姿は無い。

「今日もお疲れ様です!で、今日は何して遊ぶんすか?」
背中に落ちるドンと強い衝撃。
それまで影さえなかった少年の姿が、宗一郎に抱き付いている。
歳は10にも満たない程の少年は、時代に似つかわしくない着物姿。
それは旅館の浴衣等でもない。

「前にお客の子が持ってるの見て欲しがってたでしょ。はい」

そう言って取り出したのは、カラフルな紙風船。
それを見ると、信長と呼ばれた少年はフワッと宙を舞う様に飛び降りる。
人には出来ぬであろうその動きは、この旅館に住み付く『座敷童』であるが故のもの。
やったーと喜びその紙風船を膨らます信長を前に宗一郎は胸を痛めていた。
明日の旅立ちを伝えられずにいる事を。
荷造りはしているのだから、何処かへ行く事は信長も気付いている。
が、しかし数日もすれば戻って来ると信じているのだ。
物心付く頃には共に過ごし、いつまでも姿変わらぬ事に気付いた時には、その気持ちは家族や友人に対するそれとは変っている事には宗一郎自身も気付いていた。
一緒に行く事さえ出来れば、そう思うも信長が旅館へもたらす幸を、親の事を思えばそれは口に出せぬ事。

「ノブ、よく聞いて。俺、明日…


(20081128日記より)




―縁




「ノブ、よく聞いて。俺、明日…」

毎日少しずつ纏めてきていた荷物。
進学の為に住み慣れたこの部屋を離れる日は、ついに明日に迫っていた。
長く続く旅館を営む家に生れたからには、この旅館を継ぎそしていつか結婚をしてその子に継ぐ。
そうなるのが自然。
だけど俺は夢を見付けてしまったんだ。
幼い頃、目の前にいる小さな少年に会うよりも先に出会ってしまっていたんだ、憧れに。

「宗、ちょっと良い?あなたにお客さんよ」

明日の旅立ちを告げる決心をつけ、スッと吸い込んだ息を吐き出す。
それに乗せて何とか切り出した俺の言葉は、意外なタイミングで現われた母の声と戸をノックする音に重なり、俺は自らの言葉を止めた。
こんな時間に、そう思いながらも翌日からの事を思えばこのタイミングも仕方が無いかと、信長にごめんとだけ告げ一度部屋を出、本館へと足を進める。
俺に会いに来たと言うその人の待つ部屋へと行くと、そこには忘れる筈の無い人が居た。
日に焼けた肌が印象的で、当時まだ幼なかった俺には広い背中もとても逞しく頼りに見えたのを今でもハッキリ覚えている。
そう、俺が憧れ目指すべき人。
高熱で倒れた母を救ってくれた、総合病院に勤める医者の牧先生。
幼心に母の容体が悪いと気付き泣く俺に、大丈夫だと告げたこの人はとても…とても格好良かった。

「久し振りだな。随分大きくなった様じゃないか」
「お久し振りです、牧先生。今日はどうしてここに?」

テーブルを挟んで向かい、座布団の上に膝を折り座れば会話は始まった。
あの時と変わらない、力強く、でも優しい笑顔がそこにはあって懐かしくさえ感じる。
今日この人が俺を訪ねて来てくれたのは、どうやら先日うちの従業員の人が病院に行った時に俺が医者を目指し上京する事を話したかららしい。
何年も経った今、また告げられた大丈夫だの言葉に明日からの日々も何とかなりそうな気がしてきた。
ただ一つ、信長の事を除いて。


****


「神さん、遅いっすよー」

牧先生と長く話過ぎた俺が部屋に戻った時にはもう夜中の二時を回っていた。
いつもなら信長も眠っている頃だからなのか、この時間になると信長の気配は感じなかったのに、今日は気配どころかしっかりと目に見える姿で渡したばかりの紙風船をぽんぽんと手の上に跳ねさせ遊んでいた。
珍しい。
手の平で隠しながらふぁと欠伸を漏らせば、服の裾が引かれ見上げられる。
やっぱり普段は寝ていたんだ、見上げて来る信長の目は瞼が今にも落ち切ってしまうのではと言う程重そうに見える。
コロコロと弾まず転がりながら紙風船は信長の手を離れ部屋の角へ。
何かを伝えたいのだろうか、裾を掴む手を一向に離そうとはしない。
どうしたのかと尋ねてみても返事らしい返事は無く、それでも何かを言おうと口を開いては閉じると繰り返す姿に、今尚明日の事を伝えられずにいる自分にも重なって見えた。

「…今日は、一緒に寝ようか」
「良いんすか?」
「あぁ、今布団敷くから待ってて」

押し入れの中の布団を引張り出して床の上に広げる。
手伝いたいのか、その小さな体で布団を引張る姿は可愛い。
だけど限界があるわけで、少しずつ膨れてくる頬に思わずプッと笑ってしまった。
見ていて良いなんて言って素直に聞くとも思えないから、中でも比較的軽いタオルを渡すと何度か見ていたのだろう、普段俺がする様にタオルを広げ皺無く伸ばす。
よく出来ましたと頭を撫でれば本当に嬉しそうに笑う物だから、つられて俺の方まで嬉しくなりながらも掛け布団を広げた。
最後の仕上げに、と信長に枕を手渡す。
俺が片手で持つそれを両手で抱く様に持つ姿。
昔は俺もそうだったのにと、まだ信長と身長の大差が無かった頃を思い出す。
そう言えば、信長に出会ったのは母の事があり牧先生に出会って少しした頃だ。
あの時、母が居なくなるのではと子どもながらに察した俺は兎に角泣いた。
…出会った時から尚変わらぬ姿で年月を過ごし続ける信長に明日からの事を告げたら、彼は一体どうするのだろう。
あぁ、駄目だ。
言える筈がない。
連れ去る事さえ出来ない、だけど、待たせる事さえ辛い。
どうすべきか分からぬまま、俺は布団の中で小さな体を抱き締め朝を迎えた。
すやすやと静かに寝息を立てる信長の前髪を掻き上げて、額に口付ける。
それでも起きる気配は無く、そっと布団から抜け出した。
自分でも驚く程に卑怯だ、これで起きる様なら話そう…そうでないなら何も言わずに行ってしまおう。
そうやって自分ではどちらも選ぼうとはしなかった上に、結果がこれだからと話さずに行こうとしているのだから。
昨日渡した紙風船を広い上げ、枕元にそっと置く。
何も知らずに眠る小さな子に、ごめんねと呟き昨日までに纏めた荷物を持って部屋を出た。
本館に行き、仕事中で話せない者を除いては両親にも従業員の方達にも挨拶を済ませた。
中には近日中に長期休みに入る人なんかも居て、それを前に挨拶が出来たのはタイミングとしては良かったのかもしれない。
生まれてから長く過ごして来た家、家族…それと、友人であり兄弟でありそして初めての感情を与えてくれた信長との別れは辛いけれど、その別れは再会のある別れなのだと信じ、敷地の外へと一歩目を踏み出した。

「俺には何も話してくれないんすか?」
「………!」

腰の辺りの高さから聞こえてきた声に振り向けば、旅館の看板を掲げる門を挟んでたった数メートルの距離に信長は居た。

「信長…」
「ひっでー…長く一緒に居たのに俺だけ除け者なんて。まぁ、俺もどうこう言えた事じゃないんすけど」
「…え?」
「お別れです、神さん」

何処か落ち着いた物言いの信長に、これがあの小さな子なのかと若干の違和感を覚える。
だけど確かに信長だ、小さな時から一緒に過ごして来たんだ、信長を間違える筈が無い。
だけど今信長はお別れだと言った。
それはつまり、ここを出て行くと言う事なのだろうか。
いや、違う。
何故だか分らない、だけどそんな気はしない。
その勘は当たっていた。
一歩一歩、歩み近付いてくる信長。
その姿は一歩進むと少しずつ歳を重ねる様に成長していき、俺の目の前、門のすぐ横まで来た頃には俺と同い年くらいの姿になっていた。
あれだけ小さく、紙風船でさえ両手で持っていたと言うのに今では片手で持つ程度。
身長が高いと言われている俺とだって10cmやそこらの差しかない。
出会った時から成長をする事の無かった信長がもし成長をしていたら、こんな姿になっていたんだ。

「昨日、山の神様が来て言ってきました。生まれ変わりの時が来た、って」

いきなりの事に頭が混乱する。
山の神様とか生まれ変わりとか、不可思議な事を何事でも無い様に言われた。
でもそうだ、幼い時から近くに居る事が当たり前だっただけで、信長だって傍目にはきっと不思議な存在なのだ。
現に今俺は見たじゃないか、急激な変化…いや、成長を。
信長の話はまるで夢物語みたいだけど、信長と過ごした時間は夢じゃなかった事を俺は知っているのだから。

「俺ね、人間になるんです」

どこまで話して良いんだろう、そう言いながらも信長は山の神様に聞いたのであろう事を俺にも話してくれた。
俺達が座敷わらしと呼ぶ信長の様な子達は、元々は幼くして亡くなった子や生まれずに死んでいった子達で、信長は後者らしい。
人が寿命を迎えるまでに強くなる筈の縁を若くして死んでしまったが為に得られなかった子ども達が、人に知られずともそれを深くする為に座敷わらしとしてこの世に止まるそうで、だからそこで生まれた縁に近しい場所に生まれ変わるのだと言う。
本当に不思議な話の筈なのに妙なまでに納得出来たのは、昨日牧先生に聞いて思い出していたからだ。
信長が現われたのは、母が病に倒れ、牧先生に出会った後。
そして昨日聞いて思い出した、その時母は身籠もっていて、結果その病が元でその子は生れてこれなかった事実。
他の誰よりも愛しく感じる筈だ。
弟なのだから。

「だからまた、遊んで下さいね」

そう言って信長がまた一歩踏み出す。
俺のすぐ隣り、敷地の外へ。
一瞬頬を掠めた柔らかい感触に振り向けばそこに信長の姿は無く、足元にはただ紙風船が転がっている。
俺からはまだ何も言っていないのに。
風が吹き飛ばされてしまいそうな紙風船を広い上げ、それを手の平の上で弾ませながら俺は駅への道を歩き出した。


****


時は流れ、俺が家を出て一年と数ヶ月。
久し振りに実家へと帰って来ればその景色も匂いも何もかもが懐かしく、だけどそこに信長の姿が無い事だけが不思議だった。
俺が出てからも変わる事なく残されていた離れの部屋に荷物を置いて、久し振りに旅館仕事を手伝おうと母の元へ。
従業員の一人に母の居所を聞けば、従業員の休憩に使っている部屋に居るのだと言われた。
すぐにそちらに向かえば扉越しに聞こえてきた楽しそうな談笑。
相手の声も聞き覚えがある、当然か、従業員の休憩室だ。
ノックをし名乗れば母のどうぞの声。
失礼しますと入った部屋には、母と赤ん坊を連れた私服姿の女性。
俺が家を出た少し後から休みを取るとは聞いていたけど、まさか産休だったなんて。

「あら、宗君お帰りなさい。見て、私お母さんになっのよ」
「ただいま母さん、清田さん」

一礼をして、手招く清田さんの横に膝を付けば、眠っていた赤ん坊は目をパチと開き俺を見た。
泣かれる!
そう確信し、もう少し静かに動くべきだったと反省する。
だけどその子はそんな俺を見てキャッキャと笑った。
抱いてみる?と聞かれ、そんな経験の無い俺には怖くてどうしようもない筈なのに、教えてもらいぎこちなくながらもその子を抱く。
温かい。

「そうだ、清田さん。この子の名前は?」
「信長よ…ねー、ノブー?宗一郎お兄さんに抱っこされて嬉しいの?」

何となく、何となくそんな気はしていた。
だけどやっぱり、君がそうなんだね。
忘れた事なんてなかった、待っていたよ。
おかえり。
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