当×征小説

□月の雫‐vol.2‐
1ページ/3ページ

征士から来訪を伝える電話があったのは、当麻が大阪に戻って1ヶ月程経った頃だった。

その間も時折メールや電話で連絡は取っていたのだが、どうやらあまり記憶は戻っていないようだった。
家の剣道道場での仕事は、怪我が治ってから再開し始めたらしいが―――


征士を迎えに駅へと向かう。
今まで、何度もそうして通った道。
けれど、今日迎えに行くのは恋人であって恋人でない彼。
なんだか当麻は複雑な気持ちだった。


あれからも何度も考えたこと。
全てを征士に話してしまう方がいいのだろうか、と。
けれど、やっぱり当麻は出来ないと思う。

征士から寄せられる気持ちを疑うようになってしまうのは、今のこの現状よりも苦しい事のような気がするのだ。


何時もの場所に、征士の姿を見つけた。
その姿は凜として以前となんら変わりなくて、記憶喪失なんてなかったかのように錯覚しそうになる。

当麻に気が付いて、征士がほっとしたように笑った。
その笑顔に、当麻の胸がチクリと痛んだ。

違う―――

そう思う自分が嫌だ。


「当麻」


「……久しぶり。元気そうだな」


「当麻も」


なんだかついよそよそしくなってしまって、会話がぎこちなくなってしまう。


「えーっと………とりあえず、俺んち来るか?」


頷いた征士と並んで歩き出す。
歩きながら、征士は記憶を探るかのように周囲の景色を眺めていた。


「怪我は、もういいのか?」


「あ、ああ。もう全然大丈夫だ」


「そうか。良かった」


金木犀の香りのする穏やかな風の中、とりとめもなく日常のことを話す。
その内にぎこちなさも取れて、当麻はほっとした。


―――情けない奴だと、自分で自分が嫌になる。
征士の言葉や表情、動作の端々に、以前との違いを見つけてしまう自分に。
記憶がないというだけで、征士は征士に違いないのに。
そう、頭では分かっているのに。

ふと難しい顔になった当麻を、征士が何か言いたげに見つめていた。




 *********




当麻の家に着いて中に通されて、征士は辺りを見回した。

此処でもそうだが、大阪に着いてからなんとなく懐かしさの様なものを感じても、何かを思い出すことはなくて、征士は小さくため息をつく。

暫く此処に居れば、当麻は何か話してはくれないだろうか、という期待。
そんな気持ちもあるけれど、当麻は何かその辺りの会話を避けている様に感じる。

モヤモヤした気持ちのまま、征士は当麻が入れてくれたコーヒーに口を付けた。

それは、ちょっと苦い気がした。



―――トイレに立った時に、征士はふと近くの洗面台にある歯ブラシに目を留めた。

2本………?

征士は小さく首を傾げる。

そういえば、さっき当麻がコーヒーを入れてくれた時に見えたカップや茶碗の類いも、大体が二人分だったような気がする。

もしかして、彼女のものとか……?

だとすれば数日とはいえ、自分が此処に滞在していると迷惑にはならないだろうか。
そう思うと共に、ズキリと胸が痛むのを感じる。

それでも、考えてみれば、自分たちは結婚して子供がいたっておかしくない年齢なのだ。
今まで、そんなことにも思い至らなかった自分に征士は半ば呆れながら、当麻に声をかけた。


「当麻。え…と、あの歯ブラシは……」


どう訊いたらいいかと、歯切れの悪い征士に、


「ああ、あれ、緑のはお前のだから」


あっさりと、しかも意外な答えが返ってきて、征士はきょとんとなった。


「―――え?」


「着替えも少し、前から置いてあるのが―――征士?」


固まってしまっている征士に、当麻が怪訝な顔をする。
征士はハッとした様に、瞳を瞬かせた。


「あ。いや、すまない。……まさかその…自分のだとは思わなくて……」


「……ああ」


征士の考えに気付いた様に、当麻が少し目を見開いた。
そしてくすりと笑う。


「気をつかうな。俺は彼女なんていないから」


「そう……なのか?」


ほっとしたような表情の征士を、当麻はじっと見つめた。


『征士は、きっとまた、君を好きになる』


以前伸に言われた台詞が、頭に蘇る。

そうなのだろうか―――?

今のこの征士も、自分を好きでいてくれると自惚れても―――?

征士の身体に伸ばしそうになった腕を、当麻は躊躇って下ろした。


「―――しかし、私はそんなによく此処に来ていたのか?」


当麻の様子に気付いた風もなく、征士は辺りを見回した。

そんな征士に少し苛立ちを感じて、当麻は思う。

……来ていたとも。
記憶を無くす、少し前にも。

その時の暖かく幸せな時間を思い出すと、当麻の胸は切なさに痛む。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ