当×征小説
□月の雫‐vol.2‐
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征士から来訪を伝える電話があったのは、当麻が大阪に戻って1ヶ月程経った頃だった。
その間も時折メールや電話で連絡は取っていたのだが、どうやらあまり記憶は戻っていないようだった。
家の剣道道場での仕事は、怪我が治ってから再開し始めたらしいが―――
征士を迎えに駅へと向かう。
今まで、何度もそうして通った道。
けれど、今日迎えに行くのは恋人であって恋人でない彼。
なんだか当麻は複雑な気持ちだった。
あれからも何度も考えたこと。
全てを征士に話してしまう方がいいのだろうか、と。
けれど、やっぱり当麻は出来ないと思う。
征士から寄せられる気持ちを疑うようになってしまうのは、今のこの現状よりも苦しい事のような気がするのだ。
何時もの場所に、征士の姿を見つけた。
その姿は凜として以前となんら変わりなくて、記憶喪失なんてなかったかのように錯覚しそうになる。
当麻に気が付いて、征士がほっとしたように笑った。
その笑顔に、当麻の胸がチクリと痛んだ。
違う―――
そう思う自分が嫌だ。
「当麻」
「……久しぶり。元気そうだな」
「当麻も」
なんだかついよそよそしくなってしまって、会話がぎこちなくなってしまう。
「えーっと………とりあえず、俺んち来るか?」
頷いた征士と並んで歩き出す。
歩きながら、征士は記憶を探るかのように周囲の景色を眺めていた。
「怪我は、もういいのか?」
「あ、ああ。もう全然大丈夫だ」
「そうか。良かった」
金木犀の香りのする穏やかな風の中、とりとめもなく日常のことを話す。
その内にぎこちなさも取れて、当麻はほっとした。
―――情けない奴だと、自分で自分が嫌になる。
征士の言葉や表情、動作の端々に、以前との違いを見つけてしまう自分に。
記憶がないというだけで、征士は征士に違いないのに。
そう、頭では分かっているのに。
ふと難しい顔になった当麻を、征士が何か言いたげに見つめていた。
*********
当麻の家に着いて中に通されて、征士は辺りを見回した。
此処でもそうだが、大阪に着いてからなんとなく懐かしさの様なものを感じても、何かを思い出すことはなくて、征士は小さくため息をつく。
暫く此処に居れば、当麻は何か話してはくれないだろうか、という期待。
そんな気持ちもあるけれど、当麻は何かその辺りの会話を避けている様に感じる。
モヤモヤした気持ちのまま、征士は当麻が入れてくれたコーヒーに口を付けた。
それは、ちょっと苦い気がした。
―――トイレに立った時に、征士はふと近くの洗面台にある歯ブラシに目を留めた。
2本………?
征士は小さく首を傾げる。
そういえば、さっき当麻がコーヒーを入れてくれた時に見えたカップや茶碗の類いも、大体が二人分だったような気がする。
もしかして、彼女のものとか……?
だとすれば数日とはいえ、自分が此処に滞在していると迷惑にはならないだろうか。
そう思うと共に、ズキリと胸が痛むのを感じる。
それでも、考えてみれば、自分たちは結婚して子供がいたっておかしくない年齢なのだ。
今まで、そんなことにも思い至らなかった自分に征士は半ば呆れながら、当麻に声をかけた。
「当麻。え…と、あの歯ブラシは……」
どう訊いたらいいかと、歯切れの悪い征士に、
「ああ、あれ、緑のはお前のだから」
あっさりと、しかも意外な答えが返ってきて、征士はきょとんとなった。
「―――え?」
「着替えも少し、前から置いてあるのが―――征士?」
固まってしまっている征士に、当麻が怪訝な顔をする。
征士はハッとした様に、瞳を瞬かせた。
「あ。いや、すまない。……まさかその…自分のだとは思わなくて……」
「……ああ」
征士の考えに気付いた様に、当麻が少し目を見開いた。
そしてくすりと笑う。
「気をつかうな。俺は彼女なんていないから」
「そう……なのか?」
ほっとしたような表情の征士を、当麻はじっと見つめた。
『征士は、きっとまた、君を好きになる』
以前伸に言われた台詞が、頭に蘇る。
そうなのだろうか―――?
今のこの征士も、自分を好きでいてくれると自惚れても―――?
征士の身体に伸ばしそうになった腕を、当麻は躊躇って下ろした。
「―――しかし、私はそんなによく此処に来ていたのか?」
当麻の様子に気付いた風もなく、征士は辺りを見回した。
そんな征士に少し苛立ちを感じて、当麻は思う。
……来ていたとも。
記憶を無くす、少し前にも。
その時の暖かく幸せな時間を思い出すと、当麻の胸は切なさに痛む。