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□魔法の言葉ならびにコックの看病シリーズ
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夢を見ていた。不思議だと料理人は思った。夕飯の美味しいクリームシチューにさらにコクを出すために最後の煮込みを加えてから、かちりと火を止めて満足した記憶がある。でも、それから全く記憶がないのだ。
オーブンに入れた、シチューにたっぷり絡めて食べるバターロールが焼けた記憶も、しゃきしゃきレタスと細やかな茹で玉子たっぷりのミモザサラダを取り出した記憶も、かりっと揚げたチキンカツをサーブした記憶も、山盛りに米用のやつらの土鍋を蒸らした記憶も、レディたちに特上のグラスで特製ドリンクを提供した記憶も、銀食器を出してお皿を並べた記憶も、デザートの冷えたルビーのようなイチゴゼリーを取り出した記憶も。そして何より、それを喜んで平らげたであろう一味の記憶も。
何故だろう。確かに、ちょいちょい疲労感というか、体が軋むような痛みは覚えていたし、体がカッカッと熱くなったりガタガタと寒くなったりを繰り返していたけれど、よほど記憶が吹き飛ぶくらい疲れていたのだろうか。だから、きっと、夢を見ているのだろう。こんな、懐かしい夢を。
「おい、チビナス、こっちも片付けろ」
「わかってるよ!!」
バタバタしたバラティエ。片付けに現れた人手は幼き副料理長である彼とオーナーのゼフしかいない。あとは厨房に何人かのコックがいつもの半分以下だった。といっても、客の方もあまり姿が見えなかったのだが。理由は、調度冬の寒い時期で、風邪が流行っていた時期だったから。客もコックも風邪にやられ、仕事をするどころでも、料理を食べに来るどころでもなかったのだ。それでも、腹を空かせて食べに来る客が一人でもいるなら店を開けるというのがオーナーの方針だったため、こんな少人数状態でも店を開けていたのだった。
「おい、サンジ。けほ、稀有な体験したぞ」
その時倒れていたコックの一人が、ちょうど幼い彼を呼び寄せた。風邪のコックは後ろに回されて今のただでさえ少ないコックたちに交代で看病されるのだ。そのタイミングでは、幼い彼とパティが看病の担当だったのだが、それはさておき。そのコックは笑顔で彼を呼んだのだ。
「稀有?ってなんだ?」
「珍しいってことだ。げほ、まぁ、話を聞けよ」
看病という建前をおいて、彼はそのコックから話を聞かされることになった。どうやら先程の昼ごはんの話だ。食事はなぜかオーナー直々に持ってきてくれた。何人かのコックは、休んだことを申し訳なさそうに顔に出したり言葉に出したりする。いくら荒くれものと言えど、熱を出すと心が弱ってしまうのだ。
だが、オーナーから食事を出されてそれを食べている間に、ボソボソとなにかを言われると、彼らは顔を赤らめてしまい、申し訳なさそうな顔がふうっと消えて笑顔になってしまうのだという。まるで、魔法の言葉だった。
「いったいクソジジイは何を言ったんだ!?」
いつの間にか話に夢中になっていた彼はごくんと息を飲んだ。風邪で弱った人間を笑顔にする魔法の言葉なんて。コックはくつくつと笑い、周りにオーナーがいないことを確かめてから口を紡いだ。
「それはな……」
だが、そこで、夢を見ている料理人は首をかしげた。ずるい、おれも!そんな自分の言葉が大きく聞こえて、そのコックの言葉は小さく遠ざかる。聞こえないくらいに、遠ざかる。ふるり、と夢の光景が柔らかなゼリーのように揺れた。ふうっと、視界が消えていく。遠ざかる。消えていくーー
ーーーー
ふるり、と瞼が揺れる。赤や青の細やかなしゅわしゅわが闇の中で通りすぎた後、視界がぼやりと揺らいで入ってきた。真っ暗というより薄暗い。かたかたと波で揺れるランプが辺りを柔らかな光で照らしている。どうやらここは、いつものハンモックベッドではない。保健室の分厚い、暖かな特製ベッドだ。冷たい、氷が頭を押さえ、ふかふかの暖かな布団がぎゅうっと抱き締めるように節々熱くなったり寒くなったりする体を包んでいるし、柔らかな枕がずきずき痛む頭を落ち着かせてくれている。
「……っ」
ここは、と、なんで、が同時に、なぜか熱くて重たい頭を掠めた。けれど、くうっと鳴った布の下の薄い腹の音が、その思考を遮った。夕食を食べ損なったのか?もしかして。胃の中が空っぽだと感覚でわかる。
「なん、か……食おう」
ぼうっとする頭でゆっくりと呟き、この曖昧な状況を食事と共に昇華する方法を考える。こほり、と時折熱を逃がすように漏れ出す咳。もしかして、風邪や病で、という脳裏にちらついた考え。正しいかわからなかった。でも
ーーそれはな。
頭の中で最後に途切れたコックの言葉がまた過る。一体、彼は何を言おうとしていたんだろう。コック伝えとはいえ、ゼフが言った言葉なら、殆ど記憶に残っているのに。もしかしたら、この体調がいいとは言えない自身で何か料理を用意してみたら、わかるのだろうか。熱い頬を布団に微かに擦らせながら、ゆっくりと体を起こそうとする。
「サンジっ」
だが、半身起こしたところで、柔らかな布で未だ包まれたお腹の辺りをくうっと片手で優しく押さえられ、こぼれ落ちた氷のうの代わりに、掌をきゅっと押し当てられた。瞳をくらっと揺らして、こほり、とまた咳を漏らして、零れた背がベッドの端にもたれる。
「ルフィ……、っ」
腹から手が退いた。ゴムの腕がぐんと伸びる音、明かりがついた。パッと強い光が一閃。あまりの眩しさに目が眩んだ。
「起きたのか」
チカチカ瞬きを何度か繰り返して、慣れてきた視界に、船長の顔が映る。安堵した、そして、むすりと陰りを含んだ顔だった。
「ん……、なんで」
表情と同じものが混じった問いに、返事と疑問が漏れた。なぜ自分がここにいるのか、なぜ起きているのか、両方の問いが含まれていた。
「わかんねぇのか?」
船長の表情の曇りが少し晴れた。あからさま。なぜ、ともう一度問いたくなるくらいだ。
「サンジ、メシ作った後すぐ、倒れたんだぞ。熱だして、キッチンに倒れてたんだ!!」
「ねつ……?かぜ、か?」
「なんとかかんとかだってチョッパーは言ってたから風邪じゃねーぞ!心配すんな!」
「……なんだ、よ、それ」
結局、熱だして倒れたことしかわからないではないか、その説明では。あと、なぜ一味が食べているときの記憶がないのかはっきりしたくらいでは。料理人は、呆れたようにため息をついた。
「な……メシ、食ったのか……?おれ、さ」
「食ったぞ!!でも、ちょっと暖かくして待ってろ!!」
腹減ったから、今から何か作るんだが。そう言おうとしたのは遮られた。船長はぴたと金髪の下の額に掌を当てたまま、器用にキッチンの扉を開け、
「ここでだぞ!大丈夫だからな!!」
バチンともどして保健室から出ていった。扉は半開き、まるで台風が去ったようにキイキイ揺れている。状況はまるでわからなかった。ぽかんと、冷えた手のあとが残る額を、自身の手で押さえてしまう。
「ルフィ、サンジ君は?」
「いまおきた!だからすぐ頼む!おれがもってくからな!」
「ふふっ、わかったわ」
そこから、声が漏れ出す。美しいレディたちの声が、柔らかな音楽みたいに料理人の耳まで届く。
「あのバカ漸く起きたのか」
「ダメだぞゾロ!!サンジはなんで自分が倒れたか知らなかったんだからな!!許してやるんだ!」
「別に文句言う気はねぇ。おれはただその面を拝んでやろうと」
「だめだー!!サンジは腹へってんだからな!今はゾロとケンカさせちゃだめだー!」
「なんで熱より空腹優先なんだよ」
「熱だって自覚してんのね、ほんとは心配なんでしょ」
「別に……」
「ゾロは素直じゃねーな、ししっ」
まだそんなに夜更けではないのか。扉越しにキッチンからぎゃーぎゃーと剣士と船長、そして航海士の喧騒が聞こえてくる。料理人は次から次に飛び込むそれを耳に入れながら、下半身にかかる暖かな布の表面を手のひらで柔らかくかき混ぜた。船長が少し顔を曇らせてから明るくなった理由は知れた。けれど、自分が倒れたと聞いたときから、いやもう少し前から、考えていた。どこぞのコックたちと同じように、やはり心配や迷惑をかけてしまったのでは、と考えていた。だから、ずっと顔を船長よりも、曇天のように陰らせる。
ーーそれはな。
そして、夢に引きずられて、ついゼフの魔法の言葉を欲してしまった。弱った言葉を笑顔にしてくれるような、魔法の言葉を。何と言ったか、思い出せないのに。
「あら、保健室に明かりがついてますよ」
「ってこたぁ」
「ルフィ!サンジおきたのか!?」
「おう!!おきた!!」
「ルフィ、できたわ」
「ありがとう!ロビン!」
そこに別の場所から合流したのか、声が加わる。けれど、船長の嬉しそうな声が遮って、またどたばたという足音に変わった。
「ルフィ!!まっ」
「ずるいぞ!おれ」
ばたん、と声と言葉が途切れさせられて、船長が再度飛び込む。本当に大丈夫かと迷惑をかけてしまったのとで熱い頭がぼうっと何度も心配そうに揺れた。けれど、その頭はぽふぽふと撫でられる。
「そんな顔すんな、サンジ」
「え……」
「ほら!」
差し出されたスプーンつきのマグを握らされる。熱いほかほかした湯気が、汗に湿った髪の毛を温める。ほんのりただようチーズとミルクの匂い。もしかして、これは。
「腹へってんだろ!食えよ、うめーぞ!!」
ホワイトシチューだ。自身が倒れる前に作ったもの。料理人は、ゆっくりとそれを見た。頭の中が、なにかぴりりと揺れた気がした。何かが引っ掛かったような、なにかを思いだしかけているような感覚。
「迷惑とか、心配かけたとか、また優しいこと思ってるのは知ってるけどさ」
船長は熱の彼にもすうっと通るように、ストレートな言葉をぶつける。
「そんな難しいこと考えてねぇで、はやく食え!!」
すると、料理人の熱で煮えた頭にも、すうっと突き抜けて入ってくる。まるで、清涼剤のように。
「……わかった」
ぐっとたっぷりシチューのマグカップを急かされているように押されて、料理人はふうっと息つく。いただきますは、忘れない。スプーンで一かき混ぜして、トロリとした液体を掬い上げ、一さじすする。
「あち」
よく煮込まれた熱々のジャガイモが、トロリとほぐれて入ってきて、思わずほふりと湯気を吐き出した。人参は舌で潰すだけで簡単にその甘味を吐き出し、玉ねぎはとろりととけ、鶏肉はミルクで優しくなって、病気の体でもちゃんと食べられた出来だった。
「すんげぇうめぇだろ、サンジ。しっかり食って、はやくよくなれ!」
船長はそれを見て嬉しそうににこにこと笑っていた。珍しいと、料理人は思った。いや、単純にいつもとは逆なのだ。
「このシチューはな、うちの自慢のコックが作ったやつだからさ!」
自分が作った料理を温めてくれて、自分が食べて、なのにひたすらひたすら誉めてくれて。すごく誇らしげにしているのが、仲間なんて。
「あ……」
頭が、揺らぐ。思い出す。そうだ。あのとき
、たしか。
ーーおれが選んだ野菜を使ったスープだったんだ。
コックの一人は、照れ臭そうに言っていた。熱でほてった顔をさらに嬉しそうに赤くして。
ーーお前の目利きがねぇと、このうまいスープはできねぇ。
誉めて、くれたんだ。自慢げな声で。
ーーだから、とっとと元気を出せって。
ふん、と口髭を揺らして、誇らしげに、笑って。
「だからおれも、おかわりいーっぱいしたんだぞ!」
腕を振り上げて説明する船長の影が、どこかのクソジジイの顔と重なった。なんだか、いつもより照れ臭いではないか。料理人は、顔をカアッと熱以外で赤くした。
「あーっ、もう!我慢できない!」
「ずりぃぞ!!」
扉がバンと開く。そこにどたどたと賑やかに飛び込んでくる姿に瞬きする。
「みんな」
どうやら、彼を心配していたのは、船長だけではなかったようだ。
「サンジ、体調どうだ……?美味しいシチュー食べれてよかった!デザートのゼリーもすんごくおいしかったぞ!あと、あと!それ食べたら、くすり!薬飲もうなー!!」
「サンジー!!大丈夫かよぉ!!シチューもだけど今日のサラダ最高だったぜー!なんだよあの茹で玉子のポロポロソース!あっ、氷変えてくるな」
「サンジ君、体調大丈夫?今日のオレンジカクテルも爽やかでシチューにあって美味しかったわよ。もしおかわりいるならつぐわ」
「ざまぁねぇな、アホ。鶏の揚げたやつ、またシチューと作れ。……布団、出してくる」
「サンジさぁん、少し元気になったようで何よりです!!カレー大好きな私ですが、今日のシチューはほんっとにサイコー!!あっ、お洗濯ありましたらどうぞー!」
「サンジ、調子はどうだ?今日のメシも絶品だったぜぇ。シチューをパンと食べるのがスーパーうまかった!水分とるか?コーラとかな!」
「白いご飯ともよくあったわ、ありがとう。ゆっくり休んでね。わたしは……カップが終わってから洗うわ」
心配と美味しいを同時にかつ誇らしげに伝えられて、料理人はふるふると揺れる口許を緩めないようにするのに必死だ。
「ぜぇんぶ、お前のことだぞ!サンジっ」
船長はいつものようににかっと笑顔を向けてくる。どうだと言わんばかりに、白い歯を見せて、笑ってくるから。
「ずりぃ、よなぁ」
料理人は、困ったように赤い頬を緩ませ、カップの中のシチューをスプーンでかき混ぜた。
「魔法の言葉、なんて」
思い出した夢と重ね合わせる。誉め言葉。普段はめったに吐かないオーナーが、弱りきった心に呻くからこそ、響く。まさに魔法の言葉。その言葉は、魔法の言葉?と首かしげな仲間たちからはいつももらっているけれど、弱ってる分ことさらに。
「元気、でちまう」
「ししし!もっと出せ!」
わかっているのかわかっていないのか、絶妙なタイミングで相槌を入れてくる船長やまだ首をかしげる一味に瞳を閉じながらふうと笑いかけて、シチューをスプーンで掬い上げ、もう一口啜る。
「……うめぇ」
仲間たちの魔法の言葉が溶け込んだシチューは、ぞくぞくと寒気に変わった体に染み渡りながら優しく温めて、彼の体中に幸福をふわふわと広げていくのだった。
――
船長誕