小説
□その少女、終始
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相模緋音は明るく活発な少女である。
食欲旺盛。天真爛漫。部活動は以前は運動部に所属していた。
現在はその明るい性格とみんなを引っ張っていく気質から、生徒会へと立候補し、見事に書記の地位を獲得した。しかし彼女、事務的な作業は苦手である。
では何故立候補したのか。それは彼女は学校が勉強が難しくてつまらない場所だと思っていて、生徒会に入れば上手いこと学校を面白く出来るのではないかという安易な考えであった。
その考えは甘かったとすぐに知らされるが、今は今で面白いと思っている。
個性的な人物が多いこの学校は、生徒という存在を尊重し、様々な権利が与えられている。それがまたトラブルを生み、生徒会は忙しくやっているのだが、その忙しさが嫌いでは無かった。生きている、実感があったから。
今日も陽が沈んでから帰路に着いても何とも思わなかった。
いつも通り朝を迎えて、いつも通り授業をして、いつも通り生徒会での仕事をこなし、いつも通り夕方に帰る。
いつもと違うのは、今日は幼なじみが用事があるからと早くに帰って、一人だということだけ。
そう、いつも通り。
昨日も、今日も、明日も――。
しかし、家まであと数百メートルという距離で、相模緋音という人間は死んだ。
けたたましく鳴り響く時計のアラームを止めようと、ベッドから細い腕が伸びる。
煩い音を頼りに空を撫でながら右往左往して、指先に当たった時計を叩く。
「ふ、ぁあー」
ベッドから上半身を起こし、少女は大きく欠伸をした。
眠い。目を擦り、時計を手に取ると時間を確認する。7時を過ぎた、下に行ってご飯を食べなくては。
「緋音ーご飯冷めるわよー」
下の階から母が少女を呼ぶ。
「はーい!」
分かってると言いたげに返事をして、緋音と呼ばれた少女はベッドから飛び出すと、窓にかかるカーテンを勢い良く開けた。
突然部屋に飛び込んだ日の光に、緋音は思わず腕で影を作る。
「うっ、まっぶしー」
いつもより、日の光が強く感じた。
部屋にある鏡で自分の姿を確認し、慣れた手つきで短く整えられた髪を解かし、制服へと着替える。夏用の制服は動き安さを重視して軽めに作られている。
最後、仕上げに派手に動いても良いようにスパッツを履いて完成。急いで下へと降りていく。
リビングへと向かう前に他にやるべき事を手早く済ませた。
「お父さん、お母さん、おはよう!」
家族が食事をするリビングには新聞を読むスーツ姿の男性。そして、白い半袖のワイシャツを着て緋音と同じく制服として指定されたズボンを履いた、ビシッとまるでお手本のように綺麗な背中を見せる大柄の青年がいる。この背中を少女は知っている。
「緋音、紫郎くん来てるわよ」
「分かってるよ、シロー、おはよ」
「あぁ、おはよう」
この青年、いや少年の名前は吾妻紫郎。
少女相模緋音の所謂幼なじみであり、そして漫画なんかのフィクションの設定のように幼なじみの定番とも言える、隣に住む家族ぐるみの関係である。
きっかけは同じ日に両家が引っ越して来た為、吾妻家は新築、相模家は介護施設に入ったおばあちゃんの代わりだ。
紫郎の両親は父は海外の大学教授で、母は女社長で世界各国を飛び回るというバリバリのエリートの生まれで、1人で生活していた紫郎は良く相模家に遊びに来ていた。
性格は至ってストイックな冷静タイプ。静かに客観的に物事を見て解決策を提案してくれる言わば緋音のブレインだ。
おまけに炊事洗濯を含む家事を簡単にこなし、呑み込みが早く学業は成績優秀。スポーツもコツを掴めばすぐに出来てしまう万能さである。
整った顔立ちと周りを良く見ているために気が利くのもあり、クラスの人気者というこれまた漫画にいそうな奴。
緋音はいつも通りに紫郎の隣の席へと座り、頂きますと手を合わせると目の前にあるものを食べ始める。
父親はコーヒーを飲み干すと新聞を畳み、ネクタイを締め直す。
ふと、緋音の視線が父親の手の動きに誘導され首元へと移動した。引き締まった父の身体をこれ程までにじっくりと見た事が無かった。空気を取り入れ静かに動く首を見て、何かが込み上げてくるのを感じた。
――美味しそう。
「ん?今緋音何か言ったか?」
「へ?え?あ、いや、今日も目玉焼きが美味しいなーって」
言葉を溢して、父親からのその返答に緋音は我に還る。
無意識に出た言葉に緋音は混乱した。今自分は何を言ったのだと。
父親はそうかと言うと、鞄を持って一足先に会社へと向かった。
「緋音、そろそろ出ないと、今日は枡崎先生が校門担当だ」
心の中に生まれた動揺を隠すようにご飯を食べ進める緋音に、紫郎は焼きたてのトーストにバターを塗りながら声を掛ける。
枡崎先生という教師は神経質で時間に煩い。時間ぴったりに校門を締め切ってしまう。緋音はこれまで何度か校門の塀を越えたことで注意もされていた。
「――やばっ!」
味噌汁を飲みきり、緋音は立ち上がる。
鞄に使っているスポーツバックを肩に掛けると玄関へと走る。紫郎も同じくスポーツバックを肩に掛けるとトーストを左手に持ったまま玄関へと向かった。
靴を履き緋音はリビングに向かっていってきますと元気に叫ぶ、紫郎は緋音にトーストを預けると靴を履いて、同じ様にいってきますと言って二人は母親からの返事も待たずに外へと出た。
刺さるような陽射しに、腕で影を作り、後から来る紫郎を待つ。紫郎が隣に並ぶと二人の登校が始まるのである。
紫郎は腕時計の時間を確認して、いつも通りのペースなら間に合うと確信すると、緋音の持つトーストを見た。
「トースト、食べて良いぞ」
この二人の日常会話である。
大体出されたご飯では足りない緋音は紫郎が朝御飯を食べるその隣で用意したトーストを登校中に食べる。
食べ歩きは下品ではあるが、昔から作られた習慣はもう変える事も出来ない。
「え、あ、良いよ……なんか、今日食欲無くて、さ……」
当然今日も食べるだろうと思っていた紫郎は驚きのあまりに思考を停止させ、歩みを止めた。
数歩歩いて、紫郎が止まったのに気付いた緋音は後ろへと振り返る。
「お、お前……熱でもあるのか……?」
「私だって食欲無い時はあるわよ!失礼ね!シローが食べなよ、トーストっ」
トーストを紫郎の目の前へと差し出す。
あの緋音が人に食べ物を譲った。しかも焼きたてのバターを塗ったトーストを。
槍でも降るのかと、紫郎は混乱のあまり頭痛まで感じていた。
だが、普段より食欲が無いのなら仕方ない。トーストを受け取ると口にくわえ、緋音の隣へと歩く。
緋音の視線はばっちりと移動するトーストを見ていた。
やっぱり食べたいんじゃないか、その緋音の様子を見ていて紫郎はあることに気が付く。
「――緋音、お前、顔色悪いぞ」
「ねぇ、シロー……日陰に、いかな……」
肩からバックが滑り落ち、緋音の身体が傾く。
あれ、どうしてシローが変な所に立っているのだろう。激しい目眩に襲われ、思考が追い付かない。早くおいでよと倒れながら緋音は手を伸ばす。紫郎が何故真っ青な、怖い顔をしているのか、理解出来なかった。
「し、ろー……」
「緋音!!?」
気が付くと、保健室だった。
良く身体の弱い友達を運んで来ていたから、天井と白い布が張られた仕切りに見覚えがあった。しかし、保健室で寝たのは初めてのこと。
頭の上に何かある、触ってみるとそれは濡れたタオルのようだ。
「緋音、気が付いたか」
顔を声の方へと向けると紫郎がそこにいた。汗をかいている。何が起きたのか、良く分からない。
紫郎はそっと緋音の手を取ると脈を計る。ぼんやりとその様子を、見詰めていたその視線はいつしか紫郎の手を見ていた。大きくて、けど白くて傷の無い、暖かい手だ。
緋音は紫郎の手が好きで、特に紫郎に撫でられるのが好きだったりする。
――美味しそう。
ぼんやりと言葉が浮かんでは消える。
タオルをどけてじっと紫郎は次に緋音の顔を見た。顔色は大分戻ってきているようだが、まだ悪いようで、少し心配そうな顔をすると、手を伸ばして緋音の頬へと触れようとする。
――ああ、あの手が近付いてくる。
私の好きな紫郎の大きくて暖かい手が。
無意識に口を開けて、欲しいとねだる。まるで別人のようだった。
紫郎は最初何をしているのだろうと、思ったが、口から微かに顔を覗かせる針のように鋭い犬歯に気を取られた。
「――っ!」
掌に緋音が噛み付く。
力はあまり込められていないが、鋭い犬歯は十分に機能している。犬歯が刺さった場所からは血が溢れ出している。
紫郎には緋音が何をしているのか理解出来なかった。
「んっ」
甘い。
緋音が喉鳴らしたことで、紫郎は理解してしまった。何かを飲んだ音だ。理由は分からないが緋音は自分の血を飲んでいる。
「あ、緋音、何を――」
満足したのか、傷口を舐め始める。
手に夢中と言ったところか、しかし、普段見ない幼なじみの姿に、自分は今ドキドキしていると確かに感じていた。
思わず唾を飲む。このままでは、イケない。
「緋音、おい、緋音!」
紫郎の声に我に還ったのか、身体が跳ねて紫郎へと顔を向ける。いつもの相模緋音の顔だ。
「シロー……?私、今、何して……」
「緋音、口、開けてみろ」
「え?」
紫郎に言われるがままに、緋音は口を開ける。人のモノとは思えない立派な犬歯が確かにそこにあった。
「緋音……何があった?」
「な、何よシロー怖い顔して!」
様子からして、緋音は何も知らない。今何をしたのか、自身の身に何が起きているのか。
それは紫郎も同じで、どうしたら良いのか分からない。とにかく、伝えるべきだ。
一度席を立ち、何処からか鏡を持ってくると、緋音に手渡す。
「口の中を見てみろ」
「さっきから何言って――って何これ!?まるで牙じゃん!」
驚く緋音を落ち着かせるように肩を軽く叩く、紫郎へと向けた瞳は混乱から来る焦りの色を写している。
「緋音、落ち着いて聞いて欲しい。さっきお前は、俺の血を飲んだ」
「え……う、嘘……シロー……私、どうしちゃったの……?」
緋音に対する恐怖は無かった。
それよりも紫郎は不安な顔をする幼なじみをどうやって守ろうかと、そればかり考えた。守らなくては、全てから緋音を。
しかし、具体策が思い付かない紫郎には今はただ大丈夫だと、幼なじみの小さな身体を抱き締めてやる事しか出来なかった。
相模緋音の日常はこうして狂い始めた。