小説

□夢の魚
1ページ/1ページ

矢が放たれた場所があそこだとすると、見晴らしが良かったとしてもここまで届くはずがない。

今俺はどんな顔だろうか。
命拾いしてラッキー?それともまた変な事になってきた。危険を運んできた俺を射手は許すだろうか?
必ず奴は俺を見ているはずだ。俺がやるべき事は武器を持っていない事を教えるべきだ。

生き残った右腕を静かに頭の位置にまで上げ、先程から光を見せていたビルの一室を見上げた。

左腕の出血が酷い。
体温が下がり、唇が震えているのも分かる。
冷や汗が流れ出て、呼吸が荒くなっていく。
膝から砂へと落ち、立ち上がるまでの力が出ない。

まだだ、まだ俺は生きるんだ。今からあそこへ行って、食糧を手に入れるんだ。
それで水分を得て、腹を満たして、久々に砂の上で寝なくて済むんだ。
なのに、何故俺は砂の上でもた付いている。
何故俺はビルに近付けない。
何故俺は、俺の意識が遠退いて行くんだ?
ビルとの距離が遠退いていく気がした。束の間の夢が、手から滑り落ちて行く。

残った力を振り絞り、手をビルへと伸ばす。
薄れゆく意識の中、指の間から見えるビルに、ここで終わりかと、そう思うと虚しくもあった。
これも運命か――。
落ちていく意識に身を任せる事にした。もう、何も感じない。
俺は、精一杯生きたさ。





目の前に砂の山がある。
砂の山は、俺一人を簡単に飲み込むほど。
例えるなら、鯨?いや、もっと大きい。飛行船や船を砂に変えたらこれぐらいだろうか。

人や生き物の命、いくつ分だろうか――。
ぼんやりとそう考えた。
そう余計な事を考えられるほどに、身体は五体満足で、左腕は確かにそこにあった。
左手を握り、感覚を確かめる。
この感触は本物ですか?
そう問われたら、俺は頭を抱えるだろう。
一度は失った感覚に自信が持てなくなっている。

――失った?
そう言えばここはどこだろう?先程まで太陽が真上にあったはずだ。
周りの景色に注目してみれば、一気に状況が飲み込めなくなった。
まず、足元を見た。
そこにあるべき砂は無く、黒く硬い、大理石の様なタイル張りの床だ。
ぽんと軽く踵を上げて、跳躍する。硬い衝撃が、足の神経から頭へとかけ上るのを感じた。
この感触は本物だろうか?
分からない。

辺りを見回す。
空だと思われる天は暗く闇のようだが、夜空というわけではない。
真っ暗。星も月も無い。
建物の中にいるような暗さだ。
一寸先は闇という言葉で表せられる。
自身の真上と砂の山の上からは、スポットライトのように照らされている。
空気中の塵がライトの光によって光の粒のように輝いて、降り注ぐ。

俺は夢でも見ているのだろうか。
自身の感覚が信じられない。
だが、目の前で起きている事は現実であるべきだ。
そう、そうあるべきだ。
あれが夢だと?違う、あれは夢じゃない。
あの現実を夢にしてはいけない。
出会いと別れを、苦痛と悲嘆を、屍の山を歩き続けたあの日々を。

左手を伸ばし、砂の山へと手を伸ばす。
心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。
この砂は屍の山なのか、それとも、ただの砂の山なのか、どちらなのか触って分かるものでは無いが、分からないのに触ってみたくなった。

突然、砂の山から何かが飛び出し、左腕に噛み付いてきた。
その不意打ちに反応する暇も無い。

「!?」

痛みを認識して初めて自身の身に何が起こったのか理解する。
左腕に噛み付いたのは、深海に住む深海魚の様な骨の魚。その大きさは魚屋でも見掛けるような大きいと呼べるサイズではない。
しまった――。
認識してから行動に起こすまでが遅すぎた。
深海魚に噛まれた場所から抜け落ちるように砂化による崩壊が始まり、鈍い音が足元から響き左肩が急に軽くなる。
俺は、この感覚を知っている――。
これは夢じゃない。
そうだ。この喪失感を、痛みを、軽さを、絶望を俺は知っているんだ。
経験したから分かる感覚に確信を覚えたと同時に、夢であって欲しかったという心の奥で生まれた期待を捨て去り、前を向いた。
左肩の痛みは無く、目の前にあるのは堆積した犠牲の歴史。
消えた過去の感覚と、目の前で起きた現実だけで十分だ。

「俺に何がしたいんだ」

虚空に向かって投げ掛けた言葉は闇の中へと吸い込まれ、返答が帰ってくる事は無く、辺りはまた沈黙が支配する。
足元に出来た小さな砂の山は、山脈のように連なり、今までそこにあったモノの外見だけを伝えるだけ。
腕と共に下へ落ちた骨魚は砂の山の上に横たわり、空気を欲しがるように口を開閉させ、時折何かを求めて跳び上がる。
また襲われても困りモノだ。

「アンタには感謝してるぜ」

そう呟き、一思いに骨魚の頭骨を踏み砕いた。
硬いモノを砕くような乾いた音が辺りに響き、やがてまた静寂へと還る。
踏み砕かれた骨魚はいつの間にか砂へと変わっていた。

さて、この感覚が本物なら、まだ自分は生きているのではないのか。
また別の期待が心の中で生まれ始めた頃、辺りをまた見渡し、骨魚のように何かが現れる事を警戒しながら砂へと近付く。
気配は無い。
砂に触れてみると、ライトが当たっている表面は人肌を思わせるように暖かい。
中はきっと死んだ人間のように冷たいのだろう、と脳裏に浮かぶ疑問を解消しようとする探求心は持ち合わせていない。
なんとなく、この砂の山の裏側が気になり、登ることにした。裏側に何かあれば儲け物だ。
嫌でも馴れた砂山登り、屍の山を登ると言えば聞こえが悪いが生憎気にしている余裕は無い。
右腕だけで身体を支えるのは少し難しいが、そのうちまた馴れるだろうと特に嘆くことも無く、ただひたすらに登る。
山の上に、小さな穴がある。
宙に空いているそれはまるで覗き穴のようであるが、手を伸ばして距離を確認すると意外と大きいようだ。それに、届きそう。
しめた。藁にもすがる思いでその穴へ思いっきり手を伸ばした。





変な奴が来た。
ソイツは何が目的で此処に近付いて来たのかは分からない。
ただ、敵では無いのは確かなようで、左腕を失うという大怪我を負ったにも関わらず、助けてくれと叫びもしないで、残った右腕を頭の位置まで上げて自分は武器を所持していないということをこちらに伝えてきた。
あれをする暇があったのなら助けを求めれば良いのに、そのままソイツは倒れ伏してしまった。
骨蛇の攻撃を避け損なったのはこちらに気をとられたからだという理由を知っているからこそ、見殺しには出来ず、急いで回収しに走った。
驚いたのはあれだけの出血があったのに、奴が生きていたことで、気絶している間に砂化してしまった部分を気の毒だが削ぎ落とし消毒した。
手当ては終わったが、今目の前で寝ている男は恐らく『あの夢』を見ているだろう。
自身の身体を失ったショックと、砂化させる菌が含む微量の神経毒が見せる、噛まれた者なら誰もが見る夢を――。

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ