小説

□後ろの声
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つい数日前の話。
私は『彼』と喧嘩をした。
他所から見れば大したことではない、ほんの些細な理由から来る喧嘩ではあるが、私自身、頑張って作ったのだから受け取って欲しかった。
彼が恥ずかしがりやだと知っていたのに、その時受け取って貰えなかったショックから、私も大人気なく泣いてしまい、その空気に堪えきれなかったのか、彼は外へと出ていってしまった。
あれから、彼には会っていない。

携帯を何度も確認して、謝りたくて何度も電話を掛けた。
電話は圏外だとずっと言われて連絡もとれず、不安になって彼の家族に連絡を入れ、今日ついに捜索願が出されることになってしまった。

これから訪れる冬に備えて編んだ編み目の荒い長めのマフラーを、そっとクローゼットから取り出すと、居間のソファーに座り、いつでも彼が帰ってきても大丈夫なように備える。
未だに彼からも、そして彼の家族からも連絡が来ない不安と向き合うこの時間は拷問のように思えた。
彼が居なくなった当初は、タバコを没収してやるとか、泣いてしまったことを謝ろうとか、マフラーを今度こそ受け取ってもらおうなんて考えがぐるぐると渦巻いていたが、今はただ彼の無事を祈るのみであった。

――今日も、ソファーで寝よう。

玄関に近い居間で寝ることを選んだ彼女は今日も不安な夜を過ごす。






穴の中も覗かず、ただ藁にもすがる気持ちで伸ばした手は、何かを探して空を切る。
何でも良い、ただ、この状況から好転すれば良いと、それだけを願い指先に意識を集中させる。
柔らかい感触が人差し指を刺激した。
その感触を逃がすまいと、更に手を伸ばし、何度か空振りした後に遂にそれを掴んだ。
毛糸に似た感触で、柔らかく太い紐のようなそれに希望を抱き、軽く引っ張り反応を待つ。
すぐさま身体が浮くほどの力で引かれ、それに負けじとしっかりと掴む。
放すもんかと噛み付く気持ちでいれば、いつの間にか穴はすぐ目の前で、信じられないようだが、手ぐらいしか入らない穴へと吸い込まれていくように、その向こう側へと引き込まれた。

真っ白の、何も無い世界がそこにあった。
まず、掴んでいたものを確認するために手元へと視線を落とすと、そこにあったのは見覚えのあるマフラー。
白と黒の縞模様で作られた編み目の荒いマフラーで、驚くのと同時に帰ってきたんだと内心しめたと喜んだ。
マフラーは白い世界に一本の線を引き、それを辿るようにマフラー世界を走る。
この先にはアイツがいるはずだ。
謝らなくては。
ここが何処なのか、確認する余裕も、考えも無かった。
しばらく行くと、白い世界に1人、男に背を向けて座る背中に辿り着く。その背中を男は知っていた。

「お――」
「■■。早く、戻ってきて――」

声を掛けようと口を開いた瞬間、背中は嗚咽混じりの言葉を溢した。
鼻をすすり、目尻から溢れ出す涙を拭う姿に、胸の奥が痛む。

「■■。■■――!」

彼女の言葉に耳障りノイズが混じる。ノイズは言葉を掻き消し、男を不快に、そして妙に不安にさせた。
なんとなくではあるが、名前を呼んでいることは感覚で理解出来た。

名前。そう、呼ばれているのは俺の名前のはず。
俺の名前であるはずなのに――。

どうして彼女の言葉を認識出来ない。
どうして彼女の言葉を頭の中で反芻させても穴埋め出来ない。

名前が、思い出せない。


「お、俺はここだ――」

動揺の中、言葉を絞り出し、彼女へと投げ掛けるが、放った言葉は虚しく世界に響くのみで、彼女へと届くことはない。
まるでSF映画にあるような立体映像を観させられているようで、もどかしさを感じるしかなかった。
それでもいつか届くと信じて、彼女の名を叫ぼうと息を吸い込んだ瞬間、意識しなくても出るはずの言葉が彼の口から出ずに、言葉にもなれない音が情けなく溢れた。

「――!、っ!、……っ!?」

彼女の名前が出てこない。思い出せないのだ。
確かに覚えている背中も、声も、そのマフラーも、彼女の左手の薬指に光る指輪も、今着ている服だって、全部知っているのに、全部覚えているはずなのに、何故名前が呼べない。

「お願い、無事でいて……こんな別れ、嫌なんだから」

彼女の背中は小さく、弱々しく見えて、姿が見えるのに声が掛けられない悔しさと、早く帰りたいという焦りにも似た気持ちで溢れかえる。
彼女の背中にそっと近付き、左肩に触れる。泣いていた彼女に自分がよくやっていた行為だ。
言葉が届かないならせめて――。


視線を彼女から脱出すべき世界に向けられた時、白い世界はそれを待っていたかのようにキャンバスに色を乗せ、景色を作り替えていく。
コンクリートに似たような冷たさを感じる黒ずんだ灰色の天井、四角く切り取られた箇所がある壁、その四角い窓の向こう側には見慣れた黄土色と白一つ無い晴天の空色。
今いるべき現実へと、再び足を踏み入れた。





ゆっくりと目を開ける。
目の前に広がるのは黒ずんだ灰色の天井、少し顔を横に倒せば窓にあたるであろう壁の四角い切り抜きの向こう側に、砂の大地と空がある。
今寝ている場所は硬さからしてコンクリートの簡易ベッドだろう。
帰ってこれた――。
心の整理のために一呼吸置いてから、身体を左側を見るように捻り、右手でゆっくりと起こす。
胸元に当たっていた物がそこから離れ、小さく音を立てて存在を主張した。
今上半身は裸で、左腕が治療された様子から脱がされて、治療を受けた後、そのままここで寝かされていたようだ。
自身の存在を主張したそれは、宙を泳ぐように揺れ、その振動は首、そして脳へと伝わる。確認するように、しっかりと指で形をなぞり、視線をそれへと落とす。
彼女が左手の薬指に付けていた指輪と同じ物が、銀のチェーンに通され、ネックレスの一部になっていた。自分で買っておきながら、恥ずかしさからくる苦し紛れの行為だったが、おかげで喪失せずに済んだ。

「起きたか」

声だけ聴けば自分よりも低い、年上を彷彿とさせる男の声。
背中に投げ掛けられた声に反応して、指輪から手を離し身体を捻る。
この部屋の出入口と思われる場所に、医療用の眼帯を向かって右側の眼に掛けた男が立っていた。
よく観察すると、背中に矢筒を背負っている。男の手には二人分の食糧と思われる物があった。

「お前は運が良い。今日は鶏がどこからか来てな、それを捕まえてお前にやれと言われた」

肉の焼けた良い匂いに思わず鼻を鳴らす。
男は近付くと、硬いコンクリート製のベッドに座り、木で丁寧に作られたフォークで食べやすいように鶏肉を解していく。
近くに来て、一層と強くなった鶏肉の匂いに、次は喉が鳴った。

「砂化する前に食い切れよ、あと、そのマフラーはなんだ?」

皿を持ち上げた男と改めて近くで互いを確認した時、男は自身の手元にあったマフラーを見て怪訝な顔をした。
白と黒の縞模様で作られた編み目の荒い長めのマフラー。
あれは夢であって夢じゃ無かったんだ――。
それに安堵すると、汚れないようにそのマフラーを右脇に置き、皿を受け取り太ももをテーブル代わりにする。

「俺の、マフラーだ」
「――そうかい」

男は深く詮索するような事をせず、窓際へと移動すると見張りのように窓の外を眺め始めた。

「アンタが人間で安心した」

ぽつりと相手が溢した言葉を、最初理解出来なかった。
塩コショウでシンプルに味付けされた鶏肉を急ぎながらも味わっていたために、意識を集中させることが難しい。
あの男は何から人間であるかを疑い、何から人間だと確信したのか。疲れた頭ではその疑問が生まれてもすぐに消え、今目の前のことに書き換えられていく。
鶏肉が美味しいだとか、彼があの射手であるかとか、自分がどう思われているかなんて気にしている余裕は無かった。

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