小説

□隣の人
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鶏肉以外にも、随分と充実しているのか、炊きたての白米まで出されて、腹八分目を越えた頃には大分と落ち着きを取り戻し、周りの状況が見える様になっていた。
治療の為に身ぐるみを剥がれた身体には、左腕から胴体にかけて丁寧に包帯が巻かれていた。
失った左腕の感覚は今までに感じた事の無いような、左手を動かそうとしても動かせないもどかしさと、鈍く続く痛みが支配していた。
嘘のような喪失感は段々と現実味を帯び始め、身体を支え辛いという事実から、視覚、触覚と身体が嫌でも語りかける。現実への逃避からか煙草を求め始めたために、ズボンを探るが煙草は上着のポケットだったと思い出す。

「やめとけ怪我人。それともお前はかなり依存してるのか」

見張りを続ける射手が、動き始めたその様子を見て察したのか、諭す様な口ぶりで声を掛ける。俺より年下なのにと言いたそうにも聞こえた言葉に、余計な御世話だと投げつける様に返事をした。
ああ言われると段々とムキになるものだが、無意識に胸元で組もうとした腕が上手く組めなかった事に嫌でも気分が落ちる。喪失感と違和感は心を恐怖と不安で絞め付けようと手を伸ばしてくる。

「――くそっ」

零れた言葉はそのまま下へと落ちた。
射手は男が食べ終わったのを改めて確認すると、項垂れる男を気にしてかわざと足音を立てる様に歩き、食糧を乗せていた木製の皿と手作りのフォークを慣れた手付きで手早く片付ける。
音に反応して顔を上げると、射手の手が眼に入った。ナイフで付けたような切り傷が多く、また頼りがいがある様な少し厳つい大きな手だ。

「どうした?」
「その手の傷……」

視線に気付いたのか、射手は片付けをしながら男に疑問を投げかける。素直に疑問を返すと、射手は自身の手を一瞥した後、なるほどなと言った様に返事をした。そして食器を抱えたままベッドに座ると、フォークを手に取りその持ち手を確かめる様に親指の腹でなぞる。

「お前が使ったこのフォークや、皿は俺が作ったんだ」

皿はともかくフォークまで作るのかと、少し意外に思った。彼が今まで訪れた町では大体どこからか『漂流』してきた物を使っていたからという理由もあるし、この世界で物作りを行うとはどういうことなのか、あまり実感が無かったというのもある。
ただ、この世界で傷を負うというのはとても危険な行為である事は確かだった。そこまでの危険を冒して作るものなのか。

「そこから砂にならないのか?」
「そうならない様に消毒などをして気を付けてはいる。だが、決まって悪夢は見るな」
「悪夢?」

意外な単語が飛び出したと、男は拍子抜けしたような顔で射手を見た。
一方の射手は男の様子から見て、傷口から体内に侵入した菌の毒素から見させられる夢のことは知らないようだと改めて確信した。起きてすぐの男の反応も納得がいくと、一人状況を整理していく。

「内容は知らないが、先程見ていただろう。あれが悪夢だ」
「あれか」

内容を思い返すように考えこむ男の反応に、射手はなるほどなとやはり一人で納得した。
男は自分よりもこの世界に来てから日は浅く、そして、彼が今までいた町では怪我を負った人間はいなかったか、それとも見てもそれが怪我のせいで起きるものだということを知らなかったのだろう。
射手は左手で眼帯越しに左目に触れる。男の様子を過去の自分に重ね、自分の中で込み上げてくる何かがあると実感していた。

「お前は一昨日から随分と魘されていたからな、抜け出すまで結構掛かっただろう」
「ちょっと待て、今なんて言った?」
「ん?そうか、まだ言っていなかったか、お前は一昨日から眠り続けていて、ついさっき起きたんだ」

男に実感は無かったのだろう、マジかと唖然としたように呟くと、またがくりと項垂れた。
別に時間を計画的に使うタイプでも無いし、時間を無駄に過ごすのが嫌いなわけではないが、怪我をして二日近く潰すという初めての体験からショックが隠せなかった。
もう一つ、ショックな事があるならば、夢で見た彼女はこの眠り続けた二日間どんな気持ちで過ごしたのだろうかと言う悲しさだ。
自身の帰りを待ち続けている彼女に再び会うためのヒントをこの二日間の中で見付けられたかも知れないと、最初に受けたショックから段々と夢を見たことによって思考の大半を彼女が占める。

「置いてきた家族のことでも気になるか?」
「――あぁ」

しっかりと返事はするが、男の様子はどうも上の空に近いものがあった。
よっぽど心配なのだろうかと、射手は男の様子を窺うと一度食器を下げるためにベッドから腰を上げ、部屋から出ていく。
その事に気付きもせず、男はベッドから出て、射手が眺めていた窓へと歩く。無意識に掴んでいたマフラーを構わず引き摺っていく、感覚を忘れたのか二日間眠っていたという言葉だけでブランクを感じるかの様に足取りは覚束無く、傍から見れば危なっかしい。
乾いた風が窓から入り込み、近付いてきた男の髪を揺らす。
視線の先の二色に分かれた世界は、世界の果てのどこまでも続き、この旅が終りの無いようなものに感じられた。視界の下にあるビルの影の傾きから、午後を過ぎている様であった。
窓から空を見上げる瞳は何も映さず、男が何処か遠くを見ている様にも見えた。
頬を触れる風が冷たい。寒さを感じることのないこの世界で初めて感じた冷たさで、過去に置いてきたような懐かしさがあった。
視界が霞んでいるのを確かに理解しているはずであったが、男は空を見つめて『あの日』の後悔と、これからへの不安をただただ感じていた。
これほどまでに不安を覚えた事はなく、今までの自分が随分と楽に生きて来たようにも思える。右手に掴まれていたものに何を感じたのか、感触を確かめる様に強く握る。

「少し、冷えるな」

誰かに囁くように呟いた言葉は頬を掠めて風に乗り、部屋を抜けてこの世の果てへと流れされていく。
冷えた首元を温める様に、右手だけで白と黒の縞模様のマフラーを巻く。慣れていないこともあって片方の端が床についているなど乱れて不格好だが、この温かさがあれば十分だった。
巻いたマフラーを確かめる様に触り、改めてその感触を得る。マフラーを作る毛糸は良い物を選んだのだろうか、厚みがある触り心地が良いもので、触っていると段々と心が落ち着き、身体が温まっていく。
大丈夫。
いつの間にか、抱いていた不安も、左腕の痛みも、感じていた冷たさも掻き消えていた。

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