2
それは桜の花も満開の頃。
「ねぇ、保健室行った!?新しい先生が…」
「あ、知ってる!ランペルージ先生でしょ?」
会話をしていた女子は示し合わせたように、格好いいよねぇと頬を染めた。
近くでその会話を聞き流していたスザクは首を傾げる。
保健医のランペルージ先生、聞いた事の無い名前だ。
確か、去年は違う人だった気がする。
と言っても一言も話した事は無いのだが。
新任の先生だろうか。
新任式は寝ていたので、或いはそうなのかも知れない。
…まあ俺には関係ないな。
馬鹿なせいか、風邪なんて生まれてこの方ほとんど引いた事が無いし、滅多な事で怪我等しない。
それにいくらその先生が格好良かろうと、所詮男である。
兎に角、保健室とはスザクにとって最も縁遠い場所だった。
「スザク!!」
呼ばれて初めて自分がぼうっとしていた事に気付く。
顔の横ギリギリでバスケットボールを受け止めると、そのままゴールを狙ってシュートした。
当然のように3ポイントが決まる。
しかしスザクは憮然とした表情で立ち尽くした。
…身体がふわふわする。
見えている景色も、聞こえている音も、自分とは一線を画した場所にあるもののように思える。
…何だろこの気持ち悪い感覚…。
スザクはそれを振り切るようにコートを走り、バスケに集中しようとした。
昼休みの終了を告げるチャイムが響く。
スザクはふらふらする身体を律して、体育館から散る人の波に着いていった。
「おい」
廊下でいきなり腕を掴まれる。
え…俺近付いてくる人の気配に気付かなかった…?
先程のボールもそうだ。
幼い頃から剣道を極めている所為もあり、物の気配や殺気には敏感で、普段ならこんな失態は絶対に無い。
「ちょっと来い」
その上、腕を強く引かれ身体がぐらつく。
改めて自分の腕引いて歩く人物を見ると、白衣を着ていた。
後ろ姿で顔は見えないが、随分と細い。
そして抵抗もせずに連れられたのは…
「…保健室…?」
「熱を測ってみろ」
体温計を手渡され、深く考えもせずに素直に従う。
…あぁ、この人もしかして…。
「…ランペルージ先生?」
「何度だった?」
「…38度…2分」
スザクはその時初めて自分の体調が悪いという事を認識した。
…俺、熱あったんだ。
「…やっぱりな、風邪だろう。大丈夫か?取り敢えず奥のベッドで寝ていろ」
…まあ次の授業もどうせ寝るだけだし、ベッドで寝れるのはラッキーか。
それに、想像していた程保健室とは居心地の悪い場所ではない。
「…ねぇ先生?何で俺に熱があるって判ったの?」
だって俺自身気付かなかったのに。
スザクはシーツに潜り込みながら、疑問に思っていた事を口にする。
先客はいないらしい。
「…お前なぁ…。これでもこっちは一応プロだぞ?そんな事より、今朝朝食は?」
「あ…食べてない。そういえば昨日の夜も…」
普段はそんな事は無いのだが、何故か食欲が湧かなかったのだ。
「その時点で自分の体調が悪い事位気付けよ…。親も何も言わなかったのか?取り敢えず一旦家に帰った方がいいだろう。迎えに来てもらえるように親に連絡するぞ」
「…一緒に住んでないから迎えは来ないよ」
体調等殊更、どうして心配してくれるのか。
「そうか…。じゃあ一人で帰す訳にもいかないからそこで寝ていろ。今食べられそうな物はあるか?」
氷を手渡されながらスザクは首を振る。
「食欲無い…」
「昨日から何も食べてないんだろう?…じゃあこれ、食べれそうな時に」
そう言って鞄から取り出されたのは、ゼリータイプのスポーツ飲料だった。
…これ、先生の私物だよな…。
もしかすると、食事がこんな物ばかりだから先生はあんなに細いのだろうか。
スザクは思わず笑いを溢した。
「風邪はよく寝てよく食べてれば治るから。食べないと免疫落ちるぞ」
…その言葉、先生にそのまま返すよ。
スザクは心の中で呟いた。
何故だか心が暖かいような気がした。
しかし、ランペルージ先生に女子が頬を染めるのにも納得がいく。
…でもあれは格好いいって言うより、美人って言うんじゃないかなぁ…。
次にスザクが目を覚ました時、窓の外はすっかり暗かった。
今何時だ?
スザクは保健室の中で時計を探した。
「あぁ、起きたのか」
コーヒーを片手にパソコンに向かう先生を見付ける。
「おいで」
手招きされて正面に立つと、額に手を当てられる。
う…わ、何で俺こんなに緊張してるんだ!?
「ん…大分下がったな。帰るから準備しろ」
「あ…はい」
スザクは胸を押さえて首を傾げた。
…何だこれ?
それから先生の車で家まで送ってもらい、熱は一晩で下がったので次の日からは普通に登校した。
しかし風邪は治ったはずなのに、ぼうっとする事は多くなり、夜も寝付きが悪くなった。
そして考える事はと言えば、先生の事ばかりだ。
あの日以来会っていないにも関わらず、一日中先生の事ばかり想って過ごしている。
あの、同性の自分さえ見惚れてしまう程の綺麗な顔。
少しぶっきらぼうな言葉の中にある溢れんばかりの優しさ。
忘れられない。
…何か変だ。
これじゃあまるで…。
それとも単に構ってもらったり、心配された事が嬉しかった?
親代わりを先生に求めているだけなのではないか。
…向こうは仕事でやっただけなのに…。
熱を出したのが自分じゃなくても、間違い無く先生は同じ事をした。
…馬鹿だな、こんな当たり前の事で傷付くなんて。
思わず自嘲が漏れる。
…いやでも、ただ慈しんだり、愛しんだりして欲しいだけじゃない。
守ってもらいたいんじゃなくて、寧ろ守ってあげたい。
今更庇護が欲しい訳じゃないんだ。
例えばたまに笑顔なんか向けられてしまえば、胸の鼓動は大きくなって当分の間収まらない。
…やっぱりこれは保護者に向ける感情じゃないだろ。
ごにょごにょ…の時に思い浮かべたりもしないよな、普通…。
兎に角、向こうが何とも思っていなくとも、こちらが好意を抱いている事はもう隠しようもない事実だ。
…俺、先生が好きだ。
多分性別とかも気にならない位、恋に近い感情を持っている。
きっと会えばこの気持ちが何なのかもはっきり判るだろう。
会いたい…。
先生に会いたい…っ。
「…先生────っ!!!」
その日からスザクは保健室に毎日通いつめる事となる。
「廊下は走るな!ノックをしろ!」