てきすと3巻。

□豊水
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阿部君の復帰戦となった秋季大会地区予選を、オレたちはなんとか勝ち残った。
本戦開始まで10日。
そのあいだに、他の地区で勝ち抜けたチームのデータ分析をしようと、
部活後、阿部君が毎日オレの家に寄って帰るようになった。
夏までの練習時間より、2時間くらい上がりが早くなったからだった。

「やっぱ日に日に、暗くなんのが早くなったよなぁ」

今日で五日目、
阿部君は、もう当たり前の様子でガレージに自転車を停める。
その場所が、ずっとおなじだということに、オレは昨日気づいた。

「そう、だね。毎日おなじくらいの時間、なのに、今日はなんか、暗い、ね」

肌に感じる暑気には、まだまだ夏の名残りがあるのに、
降り落ちるような薄闇は、目の前にいるはずの阿部君の姿さえ霞ませて、
なんとはなしに心細さを連れてくる。
それは迫り来る秋の兆しだった。

真っ暗な玄関の鍵を開けて、門灯と玄関の明かりを点ける。
たたきに佇んでいた阿部君の顔が、姿が、はっきりと光に照らし出されて、
胸の内に広がりそうになっていた言いしれない頼りなさが、霧が晴れるように消えていった。


「お邪魔します」

もう「あがって」と言わなくても、そうして先に家に上がっていく阿部君がいる。
オレは、それをうれしいと思っている。
ガレージに、『阿部君の自転車の場所』があることを、オレはとてもうれしいと思っている。
リビングに置かれたテレビの前で、
慣れた手順でDVDをセットしていく阿部君の後ろ姿をじっと見ていた。


「よし! 今日は阿佐ヶ谷な。ここ、左バッターが揃ってっから、
そこらの攻略、いちばんに練らねーとな」

リモコンを操作しながら、篠岡さんが作ってくれた資料に目を通し、
鉛筆で丸を書いたり、矢印を引っ張ったりして、阿部君は真剣に、
でもどこか楽しそうに攻略方法を立てていく。
オレも画面を見たり、阿部君の書き足した文字の入ったレポートを読みなおしたり、
そして、ちらりと『阿部君』を垣間見たりした。


「こんなもんかな」

一通り見終えたDVDを、今度はもういちど早送りにして眺めている阿部君に、
「ちょ、ちょっと休憩しません、か?」と言うと、一瞬の沈黙のあと、

「ぷっ! なんで敬語? つか、いいじゃん。一息いれようぜ」

了解を得たところで、オレは台所に行った。
こうして『作戦会議』をするようになってからは、みんなが寄り道しているコンビニにも、
「時間がもったいねーから」と阿部君が言ったので、立ち寄ることもせず、
まっすぐオレの家に向かうようになっていたから、ちょっと小腹が空いていたりする。
家には、なにかしら簡単に食べられる物があるから、それを阿部君といっしょにつまんだりしていた。

今日は何があるかなと、きょろきょろ見回すけどテーブルにも食器棚にも特になにもなくて、
冷蔵庫を開けると、そこにはオレの大好物の梨が冷やしてあった。

『阿部君と食べなさい』

お母さんのメモが梨の一個に下敷きされていた。

「阿部君、梨、あるよー」

冷えひえの梨と包丁を持ってリビングに戻る。

「あー、なんかいっつも悪いな。おばさんにお礼言っといて」

首のうしろをぽりぽり掻きながら阿部君は姿勢を正す。
ホントに申し訳ないって思ってるんだって伝わってくる。

「阿部君、気にしない、でっ。コレ多分、じーちゃんちから送ってきたもの、だから。
いっつもね、余ってこまる、くらいなんだよ」

だからいっぱい食べてねと言うと、やっと阿部君は「おう」と言って足を崩してくれた。

しょりしょりしょり、
まあるく皮を剥いていると、

「なんだかんだいって、やっぱおまえ、手先が、きよーなんだな」

じっと指先を見つめる視線に、かあと体が、頬が熱くなる。
手元が狂わないように一所懸命になっていると、また阿部君が話しかけてきた。

「なあ、ちょっと俺にもやらせてよ」


夏休みの合宿のとき、阿部君が包丁を使ったところは見たことがなかった。
阿部君自身も、あのときは「やる」なんて言わなかった。
じゃあ、家で練習とか特訓でもしたのかなと、

「ど、どーぞ」

半分剥きかけの梨と包丁をそのまま手渡した。


阿部君の手つきは、ものすごく危なっかしかった。
でも、下手に横から口を出されると、オレは手元が狂ってしまう。
だから黙って阿部君の一挙手を見守っていた。
んだけど。


「いってっ!」

包丁と梨をテーブルに置いた阿部君の、左手親指の先に、ちいさな赤が滲んでいた。

「あっ!」

衝動だった。
ぷっくりとふくらんだ赤いいろが、流れていくのを見るのが嫌で、
オレはとっさにその赤を口に含んでいた。
あまり馴染みのない鉄の味が、みるみる広がっていく。
舌の上に、ごつごつと硬い阿部君の指。

あべくんのゆび・・・。

ハッとして口を開けたまま後ろに飛びすさった。
瞬間、阿部君と目が合ってしまった。
その表情がどんなだったか見知る間も与えられなかった。
ぐっと阿部君が眼前に迫ってきた。
殴られるのかと、怖くなって反射で目を閉じた。
その暗闇の中で、また口が塞がった。
さっきまであった硬い指の代わりに、柔らかくぬめったものが、
今度は舌の上を、下を這い回るように自在に蠢いた。



「ふ、あ、」

どれくらいの間そうされていたのか、
時間の感覚もわからなくなるくらい衝撃的だったそれは、不意に離れていった。

他人の、
阿部君の舌がオレのなかに。

ぼんやりとした頭でも、ちゃんと理解できていた。
それでも不快感は、すこしもなかった。
なかったどころか、
不快感どころか・・・。


「なんか鉄くさかったな」

ちいさな沈黙を破るように、阿部君が、ぼそっと言った。

「あべくんの、ち、」

目が合って、なんとなく不自然に笑いあう。
そんな作りものみたいな笑いが、お互いの顔から消えた瞬間、

「おまえさ、」

阿部君が、じっとオレを見た。
オレも、じっと阿部君を見つめた。
そのままオレは阿部君から視線を逸らさずに、剥きかけの梨をひと口かじった。
阿部君は、やっぱり黙ったままオレのすることを見ている。

あまい果汁に満たされているさくさくとした実を潰さないように、
そっと口に含んで阿部君へと身を乗り出した。
ゆっくりと顔を寄せながら、

(もしも。)

頭の片隅で、

(もしも阿部君が体を、顔を後ろに引いたなら。)

そんなちいさな賭けをしていた。


「みはし」と阿部君のくちびるが動いたように見えた。
そのとき、
見損ねたはずの表情を、オレは確かに見ていたことに気がついた。
震えるまぶたを閉じる。
『怖さ』のせいではなく、『恥ずかしさ』で。

結局、また阿部君から迎え入れられて、ちいさな果実片を分け合った。
何度も、なんども、厭きることなく。
溢れるほどの瑞々しい果汁が、口元をべたべたにしていく。
その爽やかなあまい芳香のなかで、
錆びついたような鉄の味も、オレにとっては甘いものだったのだとこっそり思いながら、
いつまでもむさぼるように互いを舐め与え続けた。

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