X‐dance
□Kagura
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月が二つ、互いを譲らぬように空に並んでいる。
それで俺は、今が夜なのだとようやく気づいた。
聳える摩天楼から階下を見下ろせば、廃ビルの狭間に月光は届かず、ひたすらに暗渠が広がっている。
しかし、その中で影が蠢いていることを、俺は知っていた。
追う者と追われる者がいて、彼らはこの闇の迷宮を宛ても無く、どちらかが諦めるまで回り続ける。
そして俺は、その無限の追儺に終止符を打つ役目だった。
俺は軽く飛び上がり、そのまま高度数百米を落下する。
下からの風圧に着物の裾が激しく靡き、十尺はある襟巻きが、まるで翼のように夜空に広がってはためいた。
まるで加速度など関係無く無音で降り立った俺は、ゆらりと立ち上がる。
月の縄張り争いで煌々とした空から、陰暗な地上へ辿り堕ちてきた俺は、丁度鉢合わせたらしい――いや、むしろそうなるようにここに来たのだが――"追われる者"の前に立っていた。
"追われる者"は二人、男か女かも分からぬ、小柄な影とやや膨れた影。
だが俺には、それ以上彼らについて知る必要は無かったし、さらさら興味も無かった。
だから俺は、名乗口上も前置きも言わぬまま、容赦も造作も無く、彼らの間を過ぎりざま、刀を振ったのだ。
一人は確かに斬った。
だがもう一人の手応えは無く、逃がしたのだと気付く。
まさか、と思ったその刹那、背後から殺気が迫った。
「……!」
咄嗟に上半身を捻る。
刃の軌跡が素早く弧を描く。
相手の影のくびれ(おそらく首のあたりだろう)に、俺の刃は届かなかったまま、一寸離れた処でビタリと留まっていた。
そして俺は、自らの左胸に押し付けられた固い何かに、意識を向けていた。
それが何だろうと考えるまでもない。
それはきっと力を放てば、何かしら死に至らしめるものなのだろう。
「貴様ほどの者が、こんな魑魅魍魎どもに飼われているとは」
不意に声が聞こえてきて、俺は我に返った。
この声は、今拮抗状態にある小膨れた奴のものではない。
先ほど仕留めたはずの小柄な影が、何事も無かったかのように現れ出でた。
そしてまた奇妙なことに、この場に不釣合いな甲高い少女の声だった。
「……飼われてはいない。雇われただけだ」
俺が低い声でそう訂正すると、少女がくつくつと喉で笑う声が聞こえてくる。
なにがそんなに可笑しい。
「どうでもいいけど、お喋りなら地獄でしてくれないかな」
小膨れた男が、俺に向けたらしい言葉を放った。
そこにはどこか苛立った様子がある。
計ったように周囲から"追う者"たちが集まってきて、彼の焦燥はこれが原因かと察した。
小膨れた男は小さく舌打ちした。
「なあ、お前」
周囲を囲んでいるのは、俺を雇った組織の小端どもだ。
彼らに包囲されたこの状況で、少女の声はやたらにゆっくりと、余裕を多分に含んで聞こえた。
「うちの組織に入らないか?」
獲物が追い詰められたとき、反吐が出るほどよく聞く台詞に、俺は苦笑を抑えられなかった――はずだった。
暗闇の中でようやく慣れた夜目が、こちらを見つめる二つの赤い月を捉える。
血に染まった満月のようなそれは、爛々とした少女の瞳だった。
「探しているのだろう?」
何を、とは訊く必要は無かった。
それは俺自身がよく知っている。
俺が面をつけているにも関わらず、それすら見透かすような、否、槍のような少女の視線が、俺の素顔ごと貫く。
まるで俺の目的さえ見極めようとするかのように。
「こんなくだらない組織に飼われていたとて、貴様の望むものなど得られまい」
少女の口が裂けた。
可愛らしげな声をしているが、見えた歯並びは悪くて黄ばんでいるし、漏れなく全ての歯が獣のそれのように鋭利だった。
飼われているわけではないが、訂正するのも億劫で、その代わり、俺はゆっくりと目の前の膨れた影から刀を離した。
騒ぎ出す周囲の下郎ども。
俺の裏切りを罵る暴言が、俺と少女と影の頭上を数多交差し、飛び交う。
こいつらはただの餓鬼の徒党に過ぎぬ。
刃を彼らに向ければ、一瞬にして罵詈雑言は静まり返った。
この場で彼奴らを殄戮することも考えたが、止めた。
面倒だし、俺の邪魔さえしなければ、誰であろうとどうでもいいのだ。
襟巻きが視界の端で風に遊んでいたので、俺は鬱陶しさに手の甲で払った。
「お別れは済んだ?」
どうでも良さそうに、小膨れた男の声は脱力している。
さっさと家に帰りたいとでも言いたげだった。
いいだろう。
楽しそうな誘いなら、喜んで乗るまでだ。
鬼が出て蛇が出ようとも、俺にはどうでもいい。
ただ、目的を遂げられるのなら、奈落にだって落ちてやる。
俺は面の下で、微かに口の端を歪めた。
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