小唄

□流星ボーイ
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己の足が天についているのか地についているのか分らぬほどの黒の中に、ぼんやりと意識だけが浮上する。
一切の音も無く、一点の光もない。
右も左も分からぬ空間の中、ただ、前方から風が吹き付けてくる。
段々、強くなっているようだ。
感覚だけを頼りに『右腕』をゆっくりと伸ばす。
何かまるい物が掌に触れた、瞬間。
辺りは白一色に包まれた。





峻険な山に近い、北の國への入口となる荒涼とした平原へ出て既に一月。戦況は概ね良好、敵味方全てを己が手で転がしている気にすら成る程順調だ。
「何も案ずることはありません。明日は授けた策の通りに動いて下されば結構です。」
「はっ」
先手は慎重に慎重を重ねて吟味し、自分の片腕ともいえる大将軍に渡す。武勇もさることながら、現場での機転の利く彼のこと、失態はまず考えられまい。

そう、何も案ずることはない筈だった。
なのに。
身体の中に微かに疼く何かが有る。

夢か現かは分らぬあの閃光を手にしたのは、蜀を発つ前の晩だった。
民を愛し、己を魚にとって無くてはならない水に例えてまで慈しんでくれた先帝の望みを現実にするべく、半ば無理矢理下させた北伐の命であった。
十数年共にした大きな彼の人の夢は、何時しか切り離せぬ己の夢、更にはこの国の概念そのものとなって縦横に根を張っている。
一介の世捨て人に頭を下げた彼は最早此の世の者では無いが、彼の撒いた種が民草の儚い望みと共に芽を出し、漸く大きな実を結んだのがこの戦なのである。
吉夢だか凶夢であるかは分らぬと、常ならばおとなしく引き下がったかもしれない。

―しかしこの戦だけは、絶対に。

引き返せぬ。負けられぬ。
向かい風如き、壁と思っては勝てぬ戦なのだ。




「負けた?」
「申し訳ありません。丞相の策通りに抜かりなく軍を進めていたのですが・・・」
己の影が足元に蟠るまだ日の高い刻、戻った先鋒からの報告は敵将を引き出す前に予想外の反撃に遭い、止む無く引き返してきたという、予期せぬ報告であった。
「ふむ・・・成程」
仔細を聞いて図上に展開された敵の動きは鮮やかで、こちらの経路を完全に読んでいた。
地形を巧みに利用し、少数で小刻みに振り、翻弄し分散させるというこちらの頭を抑え、尚且つ犠牲の少ない奇襲戦法らしい。
「何者でしょうか、この策を率いたのは」
「それが、兵を纏めるのに焦ってしまい、旗まで良く分かりませんでした。」
叱られた犬のように項垂れる彼の腹心が、姜と書かれていたようだと代わりに答えた。
「姜・・・ですか。存じませんね。流石に魏は人材豊富ですね。」
司馬氏もさることながら此の様な辺境にも立派な軍師がいる、と扇の陰でひっそりと目を細めた。
「明日は私自ら前線に出ることとします。変事が有れば直に伝令を出しますので、今日と同じように動いて下さい。」
将が次々に引き上げ、がらんとした幕の入口に、赤茶けた砂が小さな竜巻を作るのが見えた。




昨日の負けを取り戻さんと盛んに揉み立てる先鋒より一段下がり、戦局を見渡せる高台に登った。
「・・・まだ出ませんね」
僅かに緑の、自軍の旗色が優勢。二度同じ過ちは犯せぬと、相手の出方の初段はかわすように、と将軍には伝えてある。
対する敵も
―まだ。もう少し押せる。
そう判断した彼が突出した刹那。
「そこまでだ!此処から先、我が国へは一歩たりとも通さない!」
突如鳴り響く骨まで震わせる程の激しい鐘に負けじと張り上げられる大音声。
旋風のような速さで立塞がる一騎の若武者。
「天水の姜伯約、御相手願おう、趙雲!」

龍とも呼ばれる当代一の名手の槍を、人馬一体となって右に左にくるくるかわす姿はまるで。
「麒麟・・・ですか」
戦場から此の崖の上、まして車上の己は見えるはずもないのに。
射抜くような視線がぶつかる。

途端、胸にあった痞えが破裂した。
吹飛ばされそうな突風。刃に煌く目も眩む白日。
右手に確かに掴んだ珠。

―成程、彼のことだったのですね。

直様伝令を引き寄せ、速まる動悸を、胸を衝く欲を、悟られぬように声を落として囁く。
「趙将軍を下がらせてください。追撃を寄せて、敵将を生け捕りに。」


彼が、如何しても欲しいのです。

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