小唄

□残暑
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夏は如何してこうも暑いのでせう。
ギラギラと無遠慮な太陽に草虫同様人間様までもが踊らされて皆逆上せてしまうのではないだらうか。
「其んな事をおつしやるのは先生位のものです」
住み付きの書生が氷を運んで来て呉れる。
雪深い郷生れと言う此の男はしらじらと涼しげな貌をして居て、薄く掻いた氷と共に私の好む物の一つで在る。
「夏が暑いのは屹度、たくさんのひとが動くからですよ」
くすくすと哂ひ乍ら団扇を振るう。近頃ちつとも用を為さず、だらしなくぶらりと吊られた侭の風鈴の下で出された物を喰う。
「月英は何処へ出掛けましたかね、」
「奥様は御宮へ往かれました。隣組で縁日の手伝ひを云われたさうで。」
御帰りは遅くなるのと違いますか、と机の影から稚児の如く首を傾いで答へる。
時折、此の男は酷く懐いた猫の様に感ずる事が有る。さう云へば先程も殆ど足音がしなかつた。
「さうだ先生、日が落ちたら御宮へ参りませぬか」
「止し為さひ止し為さひ、斯様な処へ冷やかしに往くものではありませぬ。御参りなら明日の朝早くに為さい。」
宵の宮は好くない物が多いと諫めても、聞き容れて呉れぬ事は端から目に見えてゐた。
「先生は此の頃ちつとも御出掛け為さいませぬ、日の高いうちは暑くも在りませうが、晩になつて仕舞えば何の事も在りませぬ」
今宵は晴れて星も綺麗なことでせう、等と次次と捲し立てられ、不承不承尻を上げる運びと相成つた。


ぼんやりと黄色い提燈の列成る参道を歩く。
人いきれ。砂埃。奔り回る浴衣の幼子。熱。
何時も変わらぬ祭の風景に、僅かに心が痛んだ。満ちる人々のざわめきや表情は馬鹿に愉し気で、時に何所か空ろで淋しい。
「先生」
連れが一つの屋台で足を止め、私の袖を引いた。
溢れる程の水桶の中に、色取り取りの小魚がゆつくりと泳いで居る。
ひとつやつて見ませう、にこにこしながら親父から受取つた紙の得物を一つ私に寄越す。
「先生は何れが宜しいですか」
「目の出て居る奴は厭です、」
狙いを定めて慎重に寄せる、魚の方も其れと解つてついと向きを変へる。二度、三度と愚図愚図して居ると呆気無く魚に孔を空けられて仕舞ふ。
「嗚呼、残念残念。」
口惜しがつては居る物の、元から捕れる積もりも無かつた様で、相変わらず暢気に哂つてい居る。
御前への弐の足は踏まぬと、私は魚相手に罠を張る事にした。縁まで追い遣り、逃れられなく成つた憐れな個体の小さひ者だけをそつと掬ふ。空気に晒され小さく身悶へる金魚の鱗が黄金色に光つて居た。
「御上手ですね」
「言ひ出した割に、貴方は中々無器用でした」
成果無しでは詰らなからうと、炭酸水を一つ買つて遣つた。


先程迄の喧騒は丸で夢の様。
蝶蛾の如く人の集まる境内の盆提燈の眩しさに目が焼かれ、戻つた家は酷く暗く静かであつた。
柱時計がコツコツと一本調子を紡ぎ、傍らには硝子の中でひらりひらりと金魚が音も無く水面を揺らして居る。
赤い金魚の長い尾が翻り、何とは無しに祭で見掛けた浴衣の後姿を思ひ出した。
次いで、我儘な弟子が此れと奮闘して居た姿。
年頃の娘の様に伸ばした髪を馬結ひにし、剥き出しの首筋の汗ばんで居た事。
さう云へば在の横顔は獲物を睨むでゐる猫に良く似てゐた―
ビー玉をカラリと鳴らして炭酸水を流す、僅かに震へるしろい咽。
熱気で薔薇色に染まる頬。
ユラユラと金魚の動きに併せ、束の間の記憶が揺すられる。不思議に静かに昂る熱と、ぞくりとする冷や冷やした物を私は持て余して途方に暮れた。

「夏は如何してこうも暑いのでせう。」
今宵は中々眠れそうに無い。

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