小唄

□完全感覚Dreamer
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朝から風の強い日だった。
常ならば幕舎の外を行き交う卒の話し声や馬の足音、鍛錬の剣戟の音が絶えないはずの戦場の中心は、静まり返ったままであった。
こんなにも人が居るというのに。
二十三十、中へ入れない者も含めると百や千にも昇るかもしれない。
沈黙が澱のように蟠り、全員が身動きすら出来ずにいた。

星が一つ、西の空へ流れていった。






深い悲しみと大きな不安と、それから僅かに怒りが交じり合う混沌を持て余す日々だった。
この国を、私を、置いていくおつもりですか。
積るやるせなさに耐え切れず、何度も口を衝いて出そうになる。
この戦は貴方が信じた方の夢だ。
私はその方の事を知らない。
この国は貴方と彼が建てた夢の国だ。
私はこの国で生まれた人間ではない。
確たる容を持たぬ人の夢など私にはどうだって良かった。
私が信じているのは貴方だけなのです。
ずっと貴方の隣に居たいだけなのです。

けれど絶対に言えなかった。
床に就いた彼の手を握る細君の微笑に、暖かくて哀しげで、それでも強い意志を見つけてしまったのだ。
このひとは彼の全てを負うつもりなのだろう。

私は一体どうすればいいのだろう。

女性だったら、子を宿して彼の精神を紡ぐことができる。
しかし私は―傍らに常にあるだけで、彼の手足となって働くことだけで、本当に彼を支えることが出来ていたのだろうか?
どうしようもない己の無力さが見えない切っ先となって、じくじくと心の臓を突く。



彼の遺言は完璧であった。
常日頃から考えていたのだろう、弱弱しい口調ながらも、誰一人異論を唱えることのない最後の采配だった。
そこに私の名が挙がることは無い。
どんなに傍に居ようと、一国を司る為政者と軍の将とでは陽と月程に為すべきことが違う。
こんなに近いのに遠い。
走っても走っても、死ぬまで縮まない距離。



言い終えると彼は目を閉じ、穏やかな眠りの体勢に入った。
細々と上下する胸はやせ衰え、骨が浮いていた。
以前はこんなではなかった―
共に戦場に並び立っていた頃は痩せていてももっと血色良く、肉の硬さと熱さをもっていたというのに。

ふいに彼が目を覚ました。
ゆっくりと顔こちらに傾け、しっかりと焦点の合った目で
「      」
私と婦人に向って、確かに云ったのだ。






数日前に、彼から渡された物があった。
「これは貴方に預けます。これから必要になるでしょうから」
十数巻の兵法書であった。紛れも無く彼の自筆で、わざわざ紙に記してあることからも、秘すべき内容であることは明白であった。
「私に万が一のことがあれば、後を頼みましたよ」
まさか縁起でもないと、酒に流して二人で笑ったが、内心嬉しくて仕方が無かったのだ。
彼からの信頼を一心に受けているという事形で表して貰えたのだと。



そう、あの時はただ嬉しいだけだった。
今になって漸く気付いた。
彼の「秘密」「素顔」「本心」『夢』
全ては私だけが知っているということに。





胸に組まれた彼の手に己の手を重ねる。
温もりは既に無く、まるで人型の氷に触れているようだった。
滾滾と音も無く湧く涙で水溜りのようになった視界を拭い、安らかな彼の顔を見つめる。
「・・・ご心配無く、丞相。」
貴方の全てを受け入れましょう。
貴方の心は私の中に在ります。私が生きる限り、貴方もこの国も生きていられるのです。

生きて生きて生き抜いて、貴方の夢を紡ぐのです。
形は無くとも確かに、共に。


託されたものがある。
「私は・・・負けられない」


握った拳に力を込めた。

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