小唄

□こんな星の夜は、
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「終っ、た・・・」
最後の竹簡を山の頂上に放り投げる。
巡史として辺境に来て7日目。不自由ない環境で職務に精を出せることは有り難いが、疲労感は鍛錬を数刻した場合と比べ物にならない、うんと身体を伸ばしながら思う。
坪庭の木の葉が揺れる音がする。
続く己の溜息と、明りの燻る小さな音。それ以外は何も聞こえない。

直に寝台に上る気にもなれず、そっと外へ出てみることにした。


覚えたはずの昼間の景色と、まるで違う世界が其処にはあった。
山間にある街は様々な緑色に囲まれ、雪と灰色の山肌に育てられた姜維の目を楽しませたが、月の無い夜に見る其れは只大きく青黒く、時折動いているような気さえして、空想上の獣の影を連想させる始末であた。
「嗚呼、私は独りなんだな。」
答えるものはいない。連れて来た数人の将兵は別の房を宛がわれているし、皆それぞれの夢の中を散策している時刻である。
闇の中に放り出されたような、なんとも言えない心細さを感じて苦笑した。

国も家族も捨て、蜀に下る時に独りになる覚悟はしていた。
しかし、今までこんなにも実感として受け止めることは無かったように思う。

それはやはり、何時も私の傍に丞相が居て下さったからか。


穏やかな彼の声、清清しい墨の香に満ちた室の温度を思い出す―
ほんの僅かに日を跨いだだけで、此れ程までに、遠い、懐かしいという想いが膨れ上がろうとは。


ふと見上げた天に満ちる無数の瞬きは、都と変る事が無い。
「丞相はあれが将の命運の全てとおっしゃるが、ほんとうだろうか」
あの中に、私もいるのだろうか。
丞相は、今宵も私を探して下さっているだろうか。

「・・・明日には出立出来ますように」
誰も果てを知らぬ空に手を合わせる。

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