小唄

□余白
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不意に。
常日頃なら錬武演習やら山積みの簡を右から左へ片していくので天手古舞な時間帯に、急に手が空いて手持無沙汰な事がある。
(主に錦の某方が殊勝に事務をこなした、等の場合。大方竜の子に噛み付かれでもしたのだろうが)
そんな時は決まって、彼の部屋の小さな卓に向き合って座し、酒や茶を愉しむ。
香の煙が緩やかに棚引く中で静かに平坦に話をする。
時候の移ろいの中で見つけた些細な発見、大政に関する重要な職の編成の事、艶っぽい噂話まで。
内容は何だって良かった。
唯、ほんの僅かでも互いに知り合おうと、努めて意識して下さることが嬉しくて仕方がなかった。
凪いだ夜半の湖に似た底知れぬ双眸に、今は私だけが映っている。
気恥かしさと遠慮で当の自身はじっくり見返すことも出来ず、生返事をしながらこっそり白い陽に焼かれた床に目線を落とす。
椅子から延びる平行線を辿っても、薄っぺらな二次元になった私達が同じように向かい合っているだけだった。
温く弛緩した室の空気は醒めかけの夢のように優しくて穏やかだ。

器に盛られた菓子に手を伸ばす。
(あ、―)

見知った果物の姿に、知らず口元が緩んだ。
小さな豆や種子類に混じって密やかな香りを放つ、ぽってりと大きな橙色。




緑豊かなこの地に腰を据えてしばらく後、遠出をした時の事。
未だ知らぬあたらしい国の姿を見ておきたい、と告げると彼は「それでは道案内をして差し上げましょう」と自ら腰を上げたのだ。
一国の重鎮を新参者につき従わせるなど、と初めの内は緊張も恐縮もしていた。
しかし何処かでこの上なく喜ばしく思ってもいた。
そもそも己が今こうしているのも、全ては彼に因る処なのだ。国が敗れたのではなく、己が膝を着いても彼の下で居るべきと判断したからだ。
その彼と二人きりとは、浮足立つのも自然のことと思われる。
事実、数刻も馬を駆っているとちょっと登高にでも来たような、気軽な心持に変わっていた。

抜けるような蒼天の下、ぽくぽくと蹄の音。
「そろそろ休ませましょうか」
高台の平坦な場所で馬を降りる。日は頭上に高く、少し動けば汗ばむ陽気だった。
古里でもよく山には上っていたが、此処とは空気も匂いもまるで違う。
音に聞く峻嶮な峰々を背にし、ゆったり柔らかな風に愛撫され波打つ畑の鮮やかな緑、広大な城郭を遙かに見下ろすのは何とも言えず清々しい。
枡の様に小さなあの囲いの中で日々じわじわと身に染み渡る閉塞感やふとした間に湧き出る寄る辺無い身の心細さも、天と地の仕切りさえ無ければとんだ些末であると、ひいては、自分等どれ程小さな存在であるかと。
思い知らされるようで深く息を吸い込んだ。

馬を繋いだ木陰の僅か先に、小さな白い花を付けた木々が立ち並んでいた。近付くと、見目とは裏腹な強い香気に充ちている。
「何の花でしょうか」
桃か梅のようですが時期ではありませんものね、と問えば可笑しそうに眼を細めた彼がそれは杏子ですよ、と教えてくれた。
「杏子。ああ、そういえば香りが似ていますね」
「初めてですか?」
「ええ。天水には果樹があまり無くて」
杏子という物も蜀に来てから市場の乾物店で見たのが初めであった。
「この様な実が成るのですよ」
御覧なさい、と掌に取って差し出した。
梅よりは大きく、桃よりは小さく、淡い黄金色のつるりとした果実。
「酒に漬けたり干して食すのも勿論ですが、油を取ったり種から薬を作ったりします」
「へぇ。」
すぐ横に立って、小さな子供に聞かせるように説明してくれた。
さらさらと音を立てながら風が葉の間を通り過ぎて鼻先へ強い香がぶつかる。
(梅はそのままでも食せるが)
ふと、そんなことを思いついてそのまま齧ってみた。
「っ、!酸っぱい」
舌と喉を焼く刺激に酷い顔をしたのだろう、彼はくすくすと笑っている。
「どれ、」
つ、と一歩寄る彼の目と苦々しく潤んだ自分の目が丁度同じ高さで。
不意に。
どうしてか分らないのだけれど。
そのまま、彼の薄い唇が自分のそれに重なった。と思ったら直に離れた。
「成程、酸っぱい。」
普段ではあまり聞く事のない、朗らかな彼の囁き。
それで本当にどうしてかは分らないのだけれど。
彼の腕をとって、自分から口付けた。

あの時の濃密な花と果実の香を、未だに忘れられないでいる。





咀嚼すれば甘く、密やかに酸っぱい。
口一杯に広がる香りが張った身も心も弛緩させる心地がして、ついつい間を空けずに次を手に取る。
そしてあの時の情景を感覚を、その都度思い返す。
瑞々しさは欠くものの、色も甘味も時が経つほど色濃くなる。
向かいに居る彼はあの時と同じく目を細めて此方を見ている。
「貴方は本当に杏子がお好きですね」
「ええ、好きです。」
あれ以来、この部屋に来れば必ず杏子が盛られている。
瑞々しさは欠くものの、色も甘味も時が経つほどに色濃くなる。
あの日のほんの僅かな思い出と同じく。
(気のせいでは無いと良い、私だけで無ければ善い―)

ぽっと熱くなった頬を見られまいと俯いたまま、又杏子を口へ入れた。

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