小唄

□-努努-
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眠れぬ夜は久方ぶりのことである。
悲鳴と喧騒の残響がこだまし、脳がじんと痺れて上手く言葉が出てこない。
酸鼻を窮める舞台が繰り返し再生され、ともすれば底の知れぬ黒い渦に引き込まれるような感覚。
陰鬱な空気が肺に詰る。しかし同時に、得体の知れない昂揚感が思考を鈍らせる。
「殿、少し落ち着いて下さい。」
ぐるぐると幾重にも円を描くように歩く姿が、まるで捕えられた熊だと苦笑された。
どのような状況下でも殆ど相好を崩すことのない軍師の姿は頼もしくもあるが、己を試しているような気すらして、
時折憎らしくもあった。特にこんな日は。
「お掛けになって休まれては」
椅子を出されて形だけ腰を落ち着けても尚、膝が上下する。どうしても身体が止まらない。
「風に当たってくる。」
慣れぬ揺れに抗いながら、船板を踏みて舳先へ出た。



今、こうしていられるとは到底思えぬ激戦であった。
雲霞のごとく騎馬将兵が押し寄せ、激しい剣戟を弾きながら駆ける。
ただ一人。
常日頃周りについている者も、家族も、立ち込める土煙の中見失った。
陣を敷いていた中心から遥か数十里離れても、響く地鳴り、鯨波は止まない。
後に続いていた歩兵が鮮血を上げて次々と倒れていく。
己も、何人切り捨てたか分からぬ。
累々たる屍の連なり。鎧を纏った卒だけでなく、簡素な麻衣の男女や老人、子供のものもあった。
見ない振りをした。歯を食いしばり、ただ駆け続ける。
馬の背にしがみ付いているのがやっとの状態であったが、
「――――!!」
声にならぬ咆哮を振り絞り、痺れる右手を虚空に突き出した。



(後世ではこれを奇跡というかもしれん―)
不思議と、怪我一つ負っていない。
払った犠牲は大きい。失った命や物は星の数もあるだろう。
だが、兎にも角にも己は生きているのだ。
「何だ、まだ起きてんのか兄者よ」
「翼徳、子竜の様子はどうだ」
「傷の箇所は多いが、大したことは無いらしい。二三日もすれば動けるだろうってさ。」
「そうか・・・」
少々乱暴な大きく温かい手を肩に置かれ、ようやく、地に足が着いた気がした。
薄暗い靄がひび割れ、脈打つ猛りが身の内で膨らんでいく。
舳を叩く寄せる白波が大きくなる。
「生きている、」
「ああ、そうだな」
残ったのは本当に必要な物だけだ。


前方から目が眩むほどの閃光が放たれるのを確かに見た。
追い風が強く、強く背中を押す。


「これからだな。」
後悔がない訳では無い。不安で無いわけがない。
それでも焼き付いた頂の残像を追い掛け、どうやっても掴み取りたかった。
虐げれる弱者の為とか、血統の為とかそんな事はただの言い訳であったろう。
あの落雷に映った影は彼でなく他の誰でも無く、己だけでありたかった。
走り出した理由は端からそれだけで良かったのかも知れぬ。

「そうだ、これからだとも」
互いに見合せて、泥まみれの顔で笑った。腹から声を上げた。



頭上には、拍手のような満天の瞬き。

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