小唄

□Honey Trap
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「失礼します」
「今日は、いらっしゃい。」

白と灰色の堆積する、味気のまるでない箱部屋に差し込む陽光りが橙の影を作る頃、静まり返る廊下に軽い靴音が響く。
ややあって、三度のノック。
今日に限ったことではない。特に用事がある訳でも無く、ましてや己が手をかけてやらねばならない立場でも無いのに、二日と空けずに訪いがあるのだ。
煩雑な個人付合いはなるべく避けている己が、自ら進んで手伝ってくれる労働力として以上に淡い期待をしてしまう程、絆されていると思い知らされる。
「今日は土曜日ですが・・・」
「先輩の結婚式が近くであったんです。ついでだから寄ってみたら、先生の部屋の窓が開いてたので」
それで来ました、と嬉しそうに答えた。単調な電子の刺激から目を休ませるのに、彼の溌溂とした表情は格好の対象となる。
お裾分けします!と無駄に瀟洒な紙袋をひっくり返して色とりどりのキャンディーを机の上にあける。
安菓子の癖に堂々と主張する『双喜』の金字が、見も知らぬ幸福げな若者夫婦を思い連想させ、羨ましい程に眩い。
空想上の能天気な若夫婦に伝染したのか、何所かうきうきとした表情の彼は首から下が見慣れぬ様子であった。
「随分なお洒落ですね。七五三のような」
「えー、ヘンですか?割と好評だったんですけど。」

きっちりと前を合わせた黒の上下はすらりとした身体の縁を際立たせ、姿勢が固定されるからか慣れぬ服に袖を通した緊張感
からか、普段よりも背が伸びたようにも錯覚する。女子のように色柄物を好んで纏い柔和な印象の平素よりは少し、大人びて見える。
「先生こそ、休日にいらっしゃるのは珍しいですね」
「後少しで纏まる論文があったもので。もう直に一段落つきます」
朝から延々やまない乾いたフリップ音に程よく重なる、高めの声。単調な作業に心地よい旋律となり、
身体に収まる歯車を回転を速めたらしい。カーソルの点滅が思考の波より早く流れていく。
察しのいい彼は何も言わずとも、長机の上で前人未到の雪山のような様相を呈している講義資料を切り崩し始めていた。



「・・・お茶にしましょうか」
私がそう言うのと、彼の製本作業が終わるのはほぼ同時だった。どちらともなく詰めていた息を肺から追い出し固まっていた肩をゆっくりと伸ばす。
「お疲れ様でした!すぐお淹れしますね」
紙束を端に追いやり、大股で2歩。勝手知ったる何とやらで備え付けの扉を開け、首尾よく休憩の準備を始める。
貉の塒のようなこの部屋の水場は部屋の主に手近な様、一番奥に慎ましやかに鎮座し、必然、彼は自分のほぼ真横に立つことになる。座っている自分の丁度目の高さに彼のしなやかな腰がある。
ゆっくりと湯気共に豆の薫りが拡がる。
僅かに混じる、柔らかなトワレ。
ちらちらと七色に反射するビジューのカフス。
仕事を終えた安堵感を上回る正体不明の閉塞感が喉元まで出かかり、ぐっと胸が詰まったような感覚に陥った。

(―――ほんの少し、手を伸ばせば)

室温気温、そんなものでなく目に見えぬ何かで確実に、急速に「ほんの少し」の距離感が熱を高める。
阻むのは薄っぺらな白いシャツ1枚。
その下には血潮の通う瑞々しい肉体が隠されているのだ。
(気付いているのだろうか。)
私だけで無ければ。彼にも、この熱が伝染ってくれれば。


鋭くも正直になった感覚が、考えるより先に手を動かしていた。



「っ―!?」
びくりと強張る腹筋。
想像以上の手応えと、じんわりと掌に沁みるヒトの体温。
「先生・・・?」
「・・・拒んでも構わないのですよ」
榛色の眼が不安気に瞬きを繰り返し、滑らかな頬に血が上る。
そうさせているのが他でもない己であることに、目眩がしそうな愉悦を感じる。更に腕を伸ばし、腰ごと彼を引き寄せた。
遠慮がちに肩に添えられた細い手が、熱に油を注ぐ。ゆっくりと顔を上げれば嫣然たる笑みを浮かべた白い顔がすぐ其処にあり、
「拒む訳ないじゃありませんか」

私はずっと待っていたのですよ。








我ながら情けない。
足元に僅かに布を引っ掛けただけのあられもない姿で残滓に塗れた椅子に寝転がっている彼を眺めて溜息を漏らす。
あれだけ愚図愚図と引き延ばした秘すべき内心が、「スーツ姿に燃えました」なんて陳腐な理由であっさり破られてしまうなんて。
でも
「先生に見せたくて」なんて小憎らしい脅し文句を用意して来る辺り、彼も相当な確信犯である。


三日月が嗤う頃に、猛省。

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