小唄

□ハレーション
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桃の香が柔らかく鼻腔をくすぐる。少し背を伸ばせば、窓の外には様々に色づけされた霞のような花花。
雲雀の囀りや風の音や得体の知れない昂揚感に溢れるこの時期は、昔から余り好きではなかった。
ふぅ、と小さく息を吐く。
「十回目だ。」
呆れを隠さない声に顔を上げると、思いの他近くに声の主がいて、面食らってしまった。
「っ―へ、」
「さっきから溜息ばっかついてんぞ。筆、ついてる」
指された手元を見遣ると書簡の半ばからぽつぽつと黒い雫の跡が続き、止まっている筆先には大きな滲みが拡がりつつあった。
「ああ、しまった・・・また書き直しか」
「何か最近ぼんやりしてるけど、どっか悪いのか?」
「いえ、特にそういうのは。」
「飲み過ぎか?ちゃんと寝てないんじゃないか?」
「馬岱殿じゃないんですから」
ざりざりと竹を削る音に被さる闊達とした彼の声は、指先に伝わる細かな振動と共に弛緩した空気を心地よく揺らす。
「んじゃやっぱり、疲れてるんだろうな」
他愛もないやり取りの先に出た答えは至極在り来りなものだったが、いやにはっきりと耳に残る。
「毎日毎日、何かに追われてるみたいに机に向かってるからさ。」

瞬間、急激に視界が広がった気がした。
体中に押し詰められた綿がぽろりと外れたような、水から顔を出し時のような、爽快感。
思わず、僅かに下にあるきらきらとした二つの飴色を見返す。

(追われるように、)

確かにそうかもしれない。
茫洋とした生温い空気は、刺す様な冷気から解放されたことを証明し、冬の間に縮こまった心身を解放してくれる。
しかしその薄黄色をした陽は明明と燃える夏とは異なり、柔らかさの中に僅かな、丁度こんな墨にも似た翳りを潜ませている。
私は多分、その影が苦手なのだろう。
蕩蕩とした心地良さの裏側で突き付けられる、途方も無い孤独感。その針の振れ幅の間に、何時も私は置去りにされている気がして。
見えもしないその重圧を否定し、毎年毎年、無意識に逃げようとするから。


「…そうかも、しれません」
「ん。無理すんな」
曖昧な返答にも彼は満足げに少し目を細めて、幼子にするように私の頭を撫でる。
やんわりと伝わる掌の感覚はどこか懐かしい。
立てば頭二つ程も小さな彼が急に自分より大きくなったような不思議な感覚に苦笑すると、彼は一層笑みを深めた。
「これが片付いたら遠乗りにでも行きましょう、一緒に如何ですか?」
「おっ、いいねー!行く行く!」
心配させてしまったお詫び代わりに、彼が喜びそうな所を選ばなくては。
(川へ行こうか、それとも向うの山なら今頃はきっと花が綺麗で、)
「腹減ったなー、早く午の鐘鳴らないかな」
(そうだ、街へ行って彼の好きな点心を買うのもいい)
遊びに飽きた子犬のように床に転がる彼を横目に、色々と景色を思い浮かべながら手を進める。
漂う埃と深い蜂蜜色の髪が、動く度にきらきらと光を跳ね返す。
見ているこちらまで温かくなるような色だと思う。
その心も表情も、屈託のない彼にはこんな日の光が良く似合う。


彼と一緒なら、春も好きになれそうな気がした。




「ついでに手伝って下さればもっと早く終わるのですが」
「あー・・・それは断る。」

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