遊戯

□BIG MOUTH
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夜中に目が醒めるのはそうあることではない。
余程気が立っている場合か、余程心配なことがある時ぐらいか。
仮にも身体が資本の運動選手であり、睡眠が充分に取れないのは好ましくない。かといってすぐに寝直せるわけでもない。
形だけでもと室外にある手洗い場に向かうと、微かな音が聞えた。
よくよく耳を澄ませばどうやら人の声のようで、単調ながら僅かに混じる反響から、テレビであろうと推測する。
階下の大部屋から、ぼんやりとした白い光が漏れている。

時間外だ、と不満そうに声を上げる階段をだましだまし下りていく。
選手への気遣いか、単なる施工者の趣味からか、自国の古家に似せて作られた宿舎と街並みはとても精巧に
(ちょっと不便だな、と思う所までも)出来ている。
わざとらしく煤けた色を付けられているのに新しい木の匂いに充ちたこのちぐはぐな建物は、それでも奇妙ななほど身に馴染んで気に入っていた。

真っ暗な部屋中、煌々と輝くテレビ前の長椅子に置物のように動かない影。
青い光を反射する薄いレンズ。
毛布を頭からひっかぶって食い入るように見入っている後姿は、まるで童話に描かれた迷子のようで、思わず小さな苦笑が漏れた。
「ヨナスか」
画面から目を反らさないまま、先に声を掛けられた。
「よく分かったな」
「足音で分かるさ。なんだ、眠れないのか」
明かりをつけると普段から力み気味な眉間をいっそう渋らせながら振り返った。
大抵ならばこちらが投げるべき質問を先に出されるが、彼の場合はその大抵、に該当しないのでむしろそれで当然だろう。
長く睡眠を取れない性質らしく、いつも明け方近くまで起きているといつか聞いたことがある。
その代わり短時間に分けて何度か取るようで、昼間の休憩には寝ている姿ばかりが目に着く。夜行性の猛禽か、と笑っていたのはマキシムだったか。
「何となく目が覚めた。電気くらい点けろ、視力が落ちるぞ」
「余計な御世話だな」
「それは?」
「今日の試合。アルゼンチンと日本だ。日本が負けた」
大映しになった、虚空へ跳ね上がるボール。その真下で濃い空色と、淡色のストライプがぶつかり合い、喧嘩をする仔犬のようにぐるぐると追い駆け合う。
スコアは1-1、後半戦。
褐色の肌をした南米の王者は、体格も技術も見るからに上回っており、確かに付け入る隙はないだろう。
それでも同点に持ち込んでいるだけまずまずの健闘と言える。
「成る程、圧倒的だ」
ベンチに下げられているの、監督に兼ねてから注意を促されていた、青いマントにゴーグルの派手な選手がいない。
前に見た試合では中心に立ち、それは見事な采配を振るっていた記憶があるのだが。
「そう見えるだろう、だが参考になるのは日本の戦術の方だ」
心当たりはある。
自分達がいる組の中にもひとつ、番狂わせともいえるチームがある。
まだ直接交わってはいないが、地図上で場所すら見つけられない無名にも近い小さな国が、不気味に勝ち続けているのだ。
思えば日本もそうだった。
初大会とはいえ、層の薄いアジア圏のトップという実力はまだまだ未知数で、台風の目とも呼ばれていた。
目前の彼は公平な傍観者を装いながらも、脳内に様々な情報を書き加えているのに忙しいようだ。
「研究熱心で結構。何か淹れよう」
「・・・ホットミルク」
「ハチミツは」
「アカシア。」

大瓶のミルクを湯煎にかける。
作り置きやレトルトの食事は厳禁とされている為(ゴミを嫌うエルビンがうるさいし)、
宿舎の台所は窯だけとは言わないまでも、少々前時代的だ。
(敗戦から学ぶ、か―)
自分達は既に目指す頂きからは遠く離れてしまった。
無情な笛の音を聞く度に涙する戦友、立ち上がることも辛そうな仲間。その中で彼だけはいつも毅然として、落ち込む選手たちを
鼓舞し続けていた。
この経験を次に生かす、力強いその宣言に誰もが頷いていた。
彼がいたから、自分達は常に前を向いていられる。

2つのカップにミルクを注ぐ。
片方は少量のハチミツ入り。

「ニクラス」
ん、と相変わらず画面を見つめたまま此方に手を出す。溢さないように、指を開いてカップを握らせる。
アナウンスの音量が上がり、興奮に沸き立つ人のうねり。
パワー、スピード、タイミング共申し分のないシュートの切っ先が日本のエンドを狙う。
あどけない顔をした最後の守備が渾身の技を放つ――
が、一瞬だけ壁のように見えた彼の底力は無残に砕け散り、勢いが衰えないボールに身体ごと金網に叩きつけられた。
三度目の笛。
頭上に翻る水色の旗、晴れやかな獅子達の笑み。

小さな溜息と共に、点滅が消える。静けさに沈む部屋の中は温度までも急速に下がった気がした。
「・・・日本と当たりたかったな」
「今更だな。お前がそう言うとは意外だ」
「今だから言うんだ。」
眼鏡を外して冷めかけたミルクに口を付ける。ほんの少しの甘味に緩んだ横顔は少し幼く見えた。
漠然ときれいだな、と思う。滅多なことでは相好を崩さない彼の造形はつくりもののように見える時すらある。
しかし眼差しは変わらず険しく、考え事は終わらないらしい。
何を、とは聞かない。初めから分かっていたことだ。
自分と彼が時間を共有する珍事、『眠れない理由』なんて。
「・・・焦っても仕方ないだろう」
「分かっている。だが明日はどうしても勝ちたい。消化試合になんてしたくない」
もはや後のない自分達は、勝っても負けても、明日で全てが終わる。
最後だからこそ諦めたくない。全力でぶつかって勝ちたい。
あの眩い金杯はもう手に入らないけれど、背中を押して広い世界に送り出してくれた故国に、星を一つでも持って帰ってやりたい。
いつも凛として胸を張り、誰よりも、もしかしたら自分より責任感の強い彼が、そう小さく呟いた。
あくまでも真っすぐに、何よりもサッカーと国を愛している彼。
「・・・お前のそういう所が好きだな」
はぁ?とちょっと間抜けな声を出して顔を上げた。
「勝てるさ」
毛布を払って、犬を構うように柔らかい銀髪を撫でまわしてやる。
「大丈夫だ。このチームにはお前がいる」
くしゃくしゃになった髪を直しながら、呆れたように笑った。
「そうかな、そうだといいな」
「大丈夫だとも。さぁ乾杯しよう」
「はは、何にだよ」
「明日の、んん違うなえーっと、最後の晴れ舞台にチーム皆で立てることを」
(いつも自分と皆を支えてきたくれた、君の頑張りに。)

Prosit!
殆ど空になったカップをぶつけた。

「今何時だ?」
「もうすぐ3時半になる」
「・・・寝るか。」
「ああ、おやすみ」


星々の瞬きが止むまで、あと少し。
くっつけた頬は暖かかった。

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