遊戯

□灰色のイコン
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「――勿体ぶらないでそろそろ教えては頂けませんか」
しゃがみこんで無心に花を摘んでいる彼は幼子のように俺を見上げる。
「お前は本当に優秀だな」
観念したように笑った。







「私は中部育ちだから、海を見たことがなかった」
日差しは強いが時折吹く潮風は強く、秋も始まったばかりというのに此処は少々寒い。
自由に出入り出来る版図の北端、海を臨む田舎町に行きたいと突然言い出したのだ。
「機上から見下した事はあったが―やはり間近で目にすると想像上とは随分違うものだ」
もっと明るくて青くて大きな河の様にたおやかな物だと思っていた、とうそぶく。
「土地柄と季節もあるでしょう。北海は夏でも水温が低く、常に波が高いそうです」
「君の出身は確かケルンだったな。海は?」
「・・・初めてです」
白銀の飾緒が風に弄ばれ、彼の胸に輝く星々にも似た『誇り』と擦れ合って微かに澄んだ音を立てる。
向き合っているのだが、人形の硝子眼の様な彼の二つの碧に俺は映っていない。










「ポラック大佐が死んだ」
ややあって、ゆっくり立ち上がりながら呟いた。ひとつ大きく頷いて返答とする。
長身で、いつも半分を眼帯で覆ったその人の顔を思い出す。
彼の同期というその男には、何度も会っている。所属は違うが彼とは昵懇といってもいい程で、本部に居る時は三人で呑んだりしたものだった。
謹厳実直の見本のような性格は、少々気分屋で享楽的な彼とは正反対にも思えたが不思議とぴたりと空気が合っていた。
「北部戦線での勇敢な戦死、と聞いておりますが」
「表向きはな。」
両手で山盛りにしていた花を、ふっと崖下に投げた。小さな白い花は風に煽られ、音もなく雪のように流れ堕ちていく。
(表向きは。)
では実際は、という言葉は喉の奥で殺した。
「彼は近付き過ぎたのだ」
そのたった一言で、全ての事柄の説明が済んだのだ。そう理解できる程には、彼と共に居る筈。
本当は分かっていたのだ。
いつかこんな日が来るであろうと。
頭の半分では正しく冷静に理解しているのに、もう半分では納得がいかないと喚き立て、均衡がとれず軽い目眩がした。
身体の中心、胸の下辺りに風が通って寒い。
淡々と述べる彼は普段となんら変わりないが、いつも不機嫌そうに寄せられている眉だけが溜息と共に緩んだ。


『君も精々気をつけたまえ。あれは美しいが死神だ』
最後に三人で居た日、彼が席を外した後で笑いながら、件の大佐はそう言っていた。


「しかし勘違いして貰っては困る。私ではない」
はっとして顔を上げると、今度は確かに目線が結ばれていた。
成程、これこそ本意らしい。
「甘い林檎は中から腐るものだろう?」
いつも端的な強い言い方で命令する彼らしからぬ、幼子に話し掛けるように優しい声色だった。
(ああ、彼はもう諦めているのだ。)
「崩れるのも時間の問題だ―私も集る蛆を掃うのに厭きてしまったし」
はは、と空笑いをしたのは自らに対してだろうか。彼がそうしておどけて見せる事毎に、俺の気持ちは段々と凍って沈んでいく。
微動だにしないまま、彼の挙手挙動を見逃すまいと躍起になっていた。
「大佐の―ヨナスの事は心から惜しいと思っている。私も少々甘え過ぎていたのだろうな。」
ゆっくりとこちらに歩いて来る。一歩踏締める毎に、長靴の下で白い花がさくさくと小さな悲鳴を上げた。
「それと、君にも。」
息が交じる程の距離で、綺麗に微笑んで見せた。
石鹸とビールと消毒剤、鉄錆、硫黄、高級煙草に少しばかりの香水で粉飾された彼の匂いがやけに鼻につく。
「・・・連れて行ってはいただけないのですか」
これは俺の本心だ。
国家や理想の為ではなく、自分の最後の一瞬まで、この人の為だけに働きたい。彼が死ねと言えば従う。

それ程までに、彼に惚れている。

彼は少しだけ驚いたように瞬きをし、華奢な眼鏡の内側で長い睫をそっと伏せてからありがとう、と言った。
「だが一人がいいんだ。」
見たよりも細い肩を掴みたい衝動をぐっと堪える。情けないことだ、この期に及んでも俺にはそれだけの権限も、意気地もない。
両腕は見えない何かに縛められて固まったままだ。
『見損なった』『厄病神』そう罵倒して彼の目が覚めるなら、あるいは跪いて泣き喚いて懇願して彼を引き戻せるというのなら、
いっそのこと俺が死神になろうかとまで考える。
でも。
(虚しい。)
彼はもう決断しているのだ。俺が何をしても揺るぎはしない。


(――でもこれは、最後のチャンスかもしれない)
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