『風に吹かれた者達』
□皐月
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『ねぇ、しあわせ……?』
時々、その一言が耳元で聞こえる。
どんなに周りが騒がしくても、はっきりと。
誰もいない時も、静かに。
ただ一言、問いかけてくる。
………
幸(サキ)は、大学一年生。
講義を受けて、時々バイトをして、友達と遊んで。
変わりばえのない、けれど充実した日々を送っている。
そして『あの声』も、相変わらず。
幸が初めてこの声を聞いたのは、小学五年の時……夏の夜のことだった。
その時以来、週に一回はその声に問われる。
毎回同じことを、同じ声の調子で。
明るい調子でもなく、暗い調子でもなく、怒っている風でもなく。
ただ、問いかけてくる。
初めの頃は、もちろん驚いたし怖れた。
だが幸は、ただ一言訊いてくるだけのその声に、徐々に慣れていき怖くもなくなっていった。
(答えなくても、何かされるわけでもないし)
答えない、というより最初は恐怖のあまり口が利けなかったのだが……
答えずとも、それ以上は何も言ってこないし、八年間無視し続けていても、声の調子が変わることもなく、嫌な感じも全くしない。
(だからきっと、このままで大丈夫だよね)
そう、幸は思っていた。
………
『ねぇ、しあわせ……?』
ある日の夜、ベッドの上。
また、いつものようにあの声が聞こえた。
ふと幸は考える。
一度くらい、返事をしたほうがいいのだろうか。
仮に返事をしたとして、その答えが“彼女”の意に沿わぬものだったら、何かされるのだろうか。
それを思うと、中々答える気になれなかった。
(うーん……)
幸は悩む。
ごろん、と横向きになる。
そして、初めて、みた。
(……あっ)
視線の先、窓際に“彼女”は居た。
幸は、“彼女”があの声の主だと直感した。
「…………」
“彼女”は何も言ってこない。
ただじっと幸を見ている。
その顔は、笑っているわけではなく、かと 言って怒っているわけでもなく、悲しんでいるわけでもない。
ただ、優しく見ている。
(…………)
もう何年も聞き続けてきた声の主だからか、恐怖は感じなかった。
だが、視線を外せずにいた。
どうしようもないため、幸は“彼女”に話しかけてみた。
「あなたは、誰?」
すると、“彼女”は普通に答えた。
『私は、希望(ノゾミ)』
(……答えてくれた……)
幸は、自分は返事をしたことがないのに答えてくれるのかな、と不安だったが、“彼女”は優しい声で返事をしてくれたためほっとした。
しばらく見つめ合っていると、“彼女”……希望が口を開いた。
『……ねぇ、しあわせ?』
いつもの、あの決まり文句。
「希望……さんはどうして、私にそのことばかり訊くの? 何年も、ずっと」
それに幸は問いで返した。
そしてそれに、希望は答えた。
『だって、あなたの名前はサキ……幸せって字を書くでしょ? それは、ご両親が、あなたに幸せになって欲しくて付けた名前じゃないの?』
「……それは……そうだと思うけど……(だからって、どうして……?)」
幸はいまいちわからない。
困惑していると、希望が話し始めた。
『私ね、あなたが生まれる前に、この家で生まれたの』
「……えっ」
『私の両親はとても貧しくて……生きるのにとても苦労してたみたい。そんなある日、私が元気に生まれて……両親はとても喜んでくれて、また私のことを「生きる希望」だと思ったみたい。だから、私の名前は「希望(ノゾミ)」となったの』
希望は微かに微笑んだ。
『それから、私と両親は仲良く暮らした。生活は苦しかったけど、なんとか生きていたの。……でも、ある日……』
突然、表情が暗くなった。
『両親が交通事故で死んでしまったの。もう、私を「希望」としてくれる人はいなくなってしまった。私も、二人をいっぺんに亡くして生きる希望を失った。そして、私は、この部屋で自殺した……』
ここで、希望の表情が悲しみに溢れたものに変わった。
『だからね、「幸」という名を持つあなたは、幸せなのかなって。私は自分自身で全てを諦めてしまったけれど、同じこの家で生まれたあなたは、ちゃんと「幸せ」に生きているのかなって……ただ、そう思ったの』
そう言った彼女は、小さく微笑んで幸を見た。
その顔を、幸は綺麗だと思った。
「そう、だったんだ……」
幸は希望の傍に行きたかったが、なぜか身体が動かなかった。
しばらく考え、幸は正直に言った。
「楽しいことや嬉しいことはいっぱいあるし、悲しいことも辛いこともあるけれど、私は……幸せだよ。家族がいて、友達がいて、やりたいことやって……とっても充実してる」
言って、なんだか身が軽くなったような気がした。
『……そう、それはよかった……』
それを聞いた希望は、心から喜んでいるように微笑んだ。
それを見て幸は、彼女はとても優しい人なのだと痛感した。
『幸……これからも、自分の名前の意味を忘れずに、精一杯生きてね……』
そう言うと、希望の姿は消えてしまった。
その瞬間、窓は開いていないのに、優しい風が吹いたのを幸は確かに感じた。
「……うん」
幸は、ベッドの中、確たる決意をもって頷く。
そしてふと、なぜ今日“彼女”の姿がみえたのかが気になった。
(今日……今日……今日?)
時計を見ると、午前二時を過ぎている。
日付は変わり、今日は五月十五日。
幸の誕生日だった。
誕生日……
それは、この世に生まれ、名付けられた日。
そしてその名前の力が、最も強くなる日。
だが幸は、そんなことは知らない。
ただ、
(……そっか……希望さんのおかげで、大事なことに気付いたんだもん。これは……誕生日プレゼントなんだ)
そう、思った。
【皐月】終