『風に吹かれた者達』
□文月
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「仁宮(ニノミヤ)!」
天河(アマカワ)は、海で溺れかけている友人に向かって必死に泳ぐ。
まだ遠い。
もう少し。
手を伸ばして……
ようやく届いた。
無我夢中で引っ掴んできた浮き輪を仁宮の身体に通し、何とか浮かせた。
そして、
「……あっ……」
天河は意識が朦朧とし、ゆっくりと、海に沈んでいった。
「天河っ……天河ぁ……!」
海水に閉ざされこもって聞こえる仁宮の声が、次第に遠のいていった。
………
「……はっ……」
目が覚め、視界に入ったのはいつもの天井。
(過去夢、というやつか……)
天河は深呼吸し、少し昂っていた心臓音を落ち着かせた。
(ま、今となっちゃあ懐かしい記憶だな……)
天河が、海で溺れかけた友人を助けて逆に自分が溺れたのは、もう三十年も前のこと。
すぐにライフセーバーに助けられ、仁宮も天河も命に別状はなかった。
ただ、目を覚ました天河は、助けたはずの仁宮に「バカッ!」と怒られた。
その目には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
言われた瞬間は「せっかく助けてやったのに」と反論しようとしたが、すぐにそれは自分を心配しての言葉なのだと気付いた。
(仁宮……)
今はもう、その友人はこの世にいない。
二年前に、病気で死んでしまった。
(まだ半世紀も生きていないのに、死んでしまうなんて)
思い、ふと時計を見ると六時半を少し過ぎている。
(……起きるか……)
今日も彼は、いつものように起きていつものように仕事へ向かう支度をした。
………
そして、いつもの交差点。
天河は信号待ちをしている。
やがて青になり、渡ろうとした、その時。
「えっ」
誰かに腕を掴まれた。
驚いて振り向く。が、誰もいない。
気のせいか……と思い足を踏み出そうと
ドンッ!
……した瞬間、目の前で車と車が激突した。
「…………」
あまりの出来事に、天河の思考は停止した。
その真っ白になった脳に、
『……よかった……』
風が通り過ぎるような静かな声が響き渡った。
とても、懐かしい声だった。
『あの時の、お返しだよ』
その声の主が誰か、天河にはすぐにわかった。
(……にの、みや……)
未だ思考が停止した状態の彼の脳は、ただひとつのことを理解していた。
(お前が、助けてくれたんだな……)
あのまま渡っていたら、おそらく自分は車に撥ねられていただろう。
辺りのざわめきが、ようやく耳に届いてくる。
(……ありがとう、仁宮)
心の中でそう呟いた天河の眼前に、優しく微笑む「彼」が一瞬現れたような気がした。
【文月】終