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□同じ手つき
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同じ手つき



「良かったわ。不二君も来てくれて」


僕の斜め前に座っている彼女は満足げにそう言い、ナイフとフォークを器用に使って鶏肉の赤ワイン煮を小さく切って口に運んだ。


少し薄暗い店内には、ゆったりとした洋楽が控えめに流れている。
テーブルの間を行き来する店員やひっそりと喋っている客達が、そんな店の雰囲気と同化して見える。


「僕なんかが来てよかった?久しぶりなんでしょ、二人で食事するの」

「いいのいいの。貞治も不二君がいたほうが楽しそうだし。ねぇ?」


彼女は隣の席に座る乾の顔をのぞきこむ。


「あぁ。会話が弾むよ」


乾はグラスの水を飲み干してしまうと、そばを通りかかった店員にワインを頼んだ。
それを見た彼女がすぐに尋ねる。


「やだ。ちゃんと食べてるの?」

「食べてるさ。美味しいよ、このリゾット」


ならいいけど、と言って彼女は頬におりてきた長い黒髪を耳にかけなおした。そのとき彼女の薬指に光る銀色の指輪が、また目に入った。そうするつもりなんて毛頭ないのに無意識に見入ってしまう。確か乾がティファニーだと言っていた、それに。


「不二君もどんどん食べてね。今日は貞治のおごりだから」


不意に声をかけられて指輪から焦って目をそらす。そしてぎこちなく「そのつもり」と答えた。
おいおい、と乾が笑う。その笑顔を見て彼女もくすくす笑う。

美人で性格も明るくて、けれど少しそそっかしいところのある彼女は、本当に乾に似合っている。


「…で、どうだったの?論文のほうは。」


料理に添えられたレタスをフォークでいじりながら、僕は乾に尋ねた。


「まぁまぁ…かな。教授の目にとまれば今度の学会で発表できるかもしれない。」

「へぇ、さすがだね。」

「…もしもの話だ。」


乾は、三人でいるときはいつも慎重に喋った。でもそれはある意味、仕方がないのだと思う。彼の性格ということもあるし、何よりもまず、僕らには彼女に気付かれてはいけないという絶対のルールがあった。「不二君」は常に乾の親友でなければならないし、彼に対して友情以外の感情を持っていてもいけない。そしてそんな僕の前で乾は、彼女だけを愛さなければならない。

おとついの晩彼が僕の体のどこにキスマークをつけたとか、どんな言葉を耳元で囁いたとか、そういう一切の事は胸の奥にそれはもう厳重に閉まっておかなければならなかった。




しばらくして、乾が頼んでおいたワインが運ばれてきた。会話がいったん途切れ、三つのグラスに注がれていくチェリーピンク色をした液体に三人の視線が集中する。それはワインらしくない、綺麗な色だった。
そのうちのひとつをとり、早速口に運んだ乾に向かって彼女が訊く。


「ねぇ、貞治って何の研究してるんだったっけ?」

「…普通忘れる?俺そのためにここんとこ研究室にこもりっぱなしだったのに」

「ごめんごめん、あたし文系だからさ」


おどけたように、彼女が言う。そんな二人を、僕は微笑んで眺める。

もう一口ワインを飲むと、乾が答えた。


「量子力学」

「あーそうそう。何だかよくわかんないけど、楽しい?」

「…色んなデータ取ったりするし、性に合ってるとは思うよ」


彼はスプーンに持ちかえて、再びリゾットを食べ始める。
僕はワイングラスを手にとるとそれを目の前でゆっくりまわした。


「…乾は中学のときからそうだった。何かにつけてはデータデータって言って密かに部員の弱点とか探ったりね」


グラスの中でたぷたぷと光るチェリーピンクをぼんやり見つめながら、僕はひっそり笑う。

少しの沈黙のあとで、乾が言った。


「…でも結局お前には一度も勝てなかったがな」


そしてうつむいて料理を口にする乾を見て、僕はどう答えればいいのかわからなくなった。
(二人で居るときよりも彼女を含めた三人でいるときのほうが、僕の思考力はより鈍るような気がした。)
そしてずっと昔、僕らがまだ中学生で、部活を引退する何日か前に乾と最後の対戦をし終えた後の彼の姿が、頭の中に小さく小さく思い出された。
今よりか幾分幼い乾の、汗まみれの額。


「へぇ、不二君って貞治より強いんだ」


彼女が大きな目をさらに大きく開いて言った。二人でいるときならそこで会話がとぎれて沈黙になるか乾が煙草を吸い出すがどっちかなのに。
ここには彼女も居るのだと改めて気付かされた。


「こいつは天才だよ」


顔も上げずに彼が言った。


「サーブもスマッシュも何もかもが、不二の場合見ていてとても綺麗なんだ。まいったよほんとに。弱点もつかませてくれない。俺じゃ手も足も出ないんだ」


目線の先はテーブルのまま乾は一気にそう喋った。


『やっぱりお前は、天才だよ』


あの時と同じ言葉を発した乾に返す言葉がやっぱりどうしても見つからなくて、僕はそのまま黙ってレタスを口に運ぶしかなかった。





中学のときの話、彼女の就職活動のこと、乾が彼女の実家にいったときの話。しばらくの間それぞれの話に花が咲いたあと、彼女がちょうど食べ終えた皿を横に退けて言った。


「あー美味しかった」


そしてグラスの水を一口飲むと、早速メニューを取ってデザートの欄を見はじめた。


「不二君は、どうする?」

「あ、僕はもういいよ」

「そう。…ねぇ、この紅茶のババロア頼んでもいい?」


彼女は乾にむかって言う。その声に反応して彼女の顔を見た乾は、何かに気付くとおもむろに彼女の唇に手をのばす。


「ついてる」

「え?」



それを見ていた僕の心臓は止まりそうになる。



親指の腹で彼女の口元についたソースをぬぐうと、乾は何事もなかったかのように言った。


「どうぞお好きなように。」


乾のその動作に、彼女の目がとろけそうになったのがあからさまにわかった。


「え?あ、うん。ありがと」


あわててそう言って、彼女は顔を赤くしながら店員を呼んでデザートを頼んだ。


彼女は真剣に乾に惚れている。誕生日プレゼントに彼から貰った指輪を常に忠実にはめていることからも、それは明らかだった。
そしてこのような事実を間接的に目の前につきつけられても、それでもなお僕も、真剣に乾に惚れてしまっている。




何度も思う。彼を嫌いになれたらどんなに楽だろう?











彼女の頼んだデザートも届いて、またひとしきり話をしおわったあとで乾が言った。


「…そろそろ出ようか。もう満足?」

「ごちそーさまでした。うん、もうお腹いっぱい」


幸せそうな、彼女の顔。


「美味しかったよ。ごちそうさま」


僕も微笑んで立ちあがる。

店を出ると、夏の夜特有のしめった空気が肌に張り付いてきた。熱帯夜かなぁ。彼女が言う。
一足遅れて店から出てきた乾が、車のキーをポケットから取り出しながら言った。


「彼女家まで送ってくけど、お前も乗ってくか?」

「いいよ。駅まですぐだし。」

「…そうか。」

「うん、今日はありがとう。」

「あぁ。」

「じゃ、不二君。またね。」


そう言って車に乗りこむ二人にひらひらと手をふって、少し離れたところから見送る。
二人を乗せた車は、駐車場から出てすぐに見えなくなった。











僕はため息をつき、それから駅へと歩き始める。淋しいとか、つらいとか、そういうのじゃない。そういうのじゃなくって何かもっと根本的な、言葉では表せない感情がじわじわと僕の体を侵食していく。

自然と早足になる。泣きたいのでもない。独占したいのでもない。



ただ彼が好きなのだという事実に、自分でもあきれる。




(嫌いになれたら、どんなに楽だろう?)




所々に明かりのついた道を、湿った空気をきって僕はずんずん歩いた。

















彼は気付いていただろうか。


彼女の口元に手をのばすその動作が、いつかの夜、僕にキスを求めてきたときの手つきと同じだったことに。


彼は、気付いていただろうか。






end

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