story

□arc
1ページ/2ページ







arc










どんなに非道い言葉を彼に浴びせることができても、


『メス豚』
『鳴けよ』
『もっと』


キスだけは、蜜のように甘いものしかできなかった。


『すき』
『すき』
『何処にもいかないで』


服従させるつもりで彼に罠を仕掛けるのに、いつも決まって自分もそれに引っかかってしまうのだった。

唇は、実に正直だった。



手に入れたいと思ったのがそもそも間違っていた。

彼は誰のものにもならないし、なれない。

いつも絶望の隣に居て、孤独で、見えない透明の膜のような空気をまとっていた。

自分はそれ越しに彼を見ていた。

けれど馬鹿な俺は彼に触れていると思っていた。彼のぬくもりに。


錯覚だった。


そんな自分は、彼と同じように、孤独のそばに居るのだと知った。






空は晴れている。薄い雲がとても高いところに浮いている。
俺の乗る電車は、ゆっくりと、緑の中を走っていく。
一度も来たこともない場所。
窓の外の景色が、近くにあるものほど早く、遠くにあるものほどゆっくりと流れていく。
ごうっという音がしてトンネルに入る。黒い窓に自分の顔が映る。
耳がツンとする。
出かける前に浴びせられた彼の言葉が脳内に聞こえてくる。


『死ね』


今朝。乱暴な、そして次第に酔うようなそんなキスを自分からけしかけたあと、なぜかその幸福がとても怖くなって彼を殴った。
彼は少しだけよろめき、血の伝う口元を手の甲で拭ったあと、ただ、俺に小さく、死ねと言った。


『死ね』


今思い返せば、あの時の俺はそう言われても当然だったのだろう。あんなに甘い蜜のようなキスを仕掛けられたあとで突然殴られるというのは、どう見たって理不尽なことだ。けれどそのときの俺はその言葉に反射的に手をあげずにはいられなかった。彼を殴って、殴って、さんざん殴りつけたあと、そして彼の言葉通り本当に死のうと思った。
違う。“死のう”じゃない。
“殺されよう”と。
本気でそう思った。

亜久津に殺されよう。亜久津に、殺してもらおう。
俺を殺そうとして彼が動き出すそのときに、彼を覆う透明の膜、彼が誰も寄せ付けない為に自ら覆った膜が、あっけなく破れるかもしれないなどと思った。


けれど亜久津は殴り返してもくれなかった。






だから行くあても無く電車に乗った。

知らない町で知らない道を歩いたら、溶けて消えることができるんじゃないかと思った。知らない人の中で、彼の知らないところで、彼の知らない理由で、亜久津の知らない表情をして。

そしたらほんの少しは、俺のことを心の隅の隅の隅のほうで思ってくれるんじゃないか。膜の内側から、もしくはその空気の膜をすりぬけて、亜久津から何か、ほんの少しでもいいから何か届くんじゃないか。そう思った。


錆びれた小さな駅に停車したとき、場違いなほど派手に化粧をした女が乗ってきた。そして通路を通り過ぎたときに漂ってきた女向けのメンソールの匂いに吐きそうになった。もっとキツイのがいいと思った。ゴロワーズみたいな。






電車の中は、至極退屈だった。

何もすることがないので、何かを考えようとした。

何かを考えようとしたら、一番に亜久津の顔が浮かんだ。

自分はもう末期かもしれないなどと自嘲しながら、頭の中の、想像の亜久津とキスをした。

虚像の亜久津は、優しかった。

虚像の彼は、俺にキスをした後もう一度、俺にキスをせがんできた。

そんなことは現実では絶対にありえなかったけれど。

俺は空想の中の亜久津に微笑んでキスを返した。

やっぱり、妄想の中の亜久津は、優しかった。
次へ

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ