story

□乾の場合
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テニスをして、勉強もして、進学した高校でもまたテニスをして、勉強もして、そしてこの大学に入って。

気づいたら、俺は天文学者にはなっていなかった。

何故だろう。
思い返してみても、これといった原因は思いつかなかった。

いつからだろう。将来の夢を意識しなくなったのは。

そんなことを自問してみても、わかるわけなかった。わからないから今の俺があるのだ。

けれど不思議で仕様がなかった。

幼い頃、あんなにも熱望してやまなかったというのに。

一体、何故だというのだろう。




乾の場合
uncertainty








そんな物思いに耽っていると、研究室の扉が勢いよく開いた。
俺は一瞬びくりとして、たった今飲み干したばかりのコーヒーカップを持ったままそちらに目を向ける。

「あの、頼まれてた資料なんですけど、これだけしか見つかんなくて」

ここに置いていいすかね?

汗だくの彼はそう尋ね、そして俺の了承をえないまま机の上の空いたスペースにどさっとそれらを積んだ。

どれもところどころ黄ばんだ、幾分か古そうな三冊の分厚い本。

「…あ、あぁ。すまない、ありがとう」

それまでぼうっとしていた俺はこの事態を理解するのに少し手間取り、腑抜けた返事をする。

そしてのろりのろりと頭の中で状況判断をし、あぁそういえば彼に頼んでいたな、と手にもっていた空のコーヒーカップをキーボードの横に置いた。

「それにしても暑いっすね。この階まで上がってくるのにもう汗が噴き出してきちゃって。あー、天国天国」

彼はそう言って部屋のエアコンの真下にいくと、冷風を受けながら羽織っているシャツをパタパタさせた。

「てかセミ鳴きすぎ。」

彼は笑う。そして言葉を続ける。真夏日らしいっすよ、今日。

「…へぇ。」

「へぇって、暑くないんですか?」

「ほとんど部屋にこもりっぱなしだからな。逆にクーラー病になりそうだよ」

彼は小さくハハ、と応えると、「それじゃ俺はこれで」と部屋を出て行こうとした。

お礼にと思い、俺は「コーヒーでも飲んでくか?」と尋ねたが、彼は「遠慮しときます」と苦笑してそのまま扉を開け行ってしまった。

廊下に響くぺたぺたという彼の足音は、すぐに遠ざかってやがて消えた。

少しぽかんとした後、外は真夏日だというのにホットを飲んでいる方が異常なのかもしれないということにほどなくして気づき、俺は自分の滑稽さに小さく笑った。




研究のため長期間不在になる教授の代わりに、しばらくの間授業を受け持つことなった。今、俺はそのための準備に追われている。

それは急な話で(教授自身も当初はこんなに長期にわたる研究になるとは考えていなかったらしい)、自分が以前から進めていた研究を中断することになるのは少しの不満があったが、しかしこの仕事はこの仕事で良い経験になるのではと考え、受諾することにしたのだった。



持ってきてもらった本から何気なく一冊を手にとる。
題名は「やさしい量子力学」。

俺が受け持つことになる授業はこの分野の学問についてほとんど何も知らない一回生に向けてのものであるため、「できるだけ平易に説明してあるものを」と先ほどの彼には頼んでおいた。

自分の持っている知識の確認という意味でも初歩の本は参考になるし、何より授業を聞いて量子力学に興味を持ってくれた学生に後でこれらを勧められるように、と考えてのことだった。

年季の入ったその本を、
ぱらぱらと適当にめくる。

最初のほうには、分子、原子、電子など、この学問の基本中の基本である言葉の説明がなされているようであった。読んでみるとそれなりに丁寧に解説されており、古い本にありがちな間違いなどもこれといって見つからなかった。なかなか良い本だな、と素直に思った。

さらにページを進めると、不確定性理論について書かれたページがあった。
俺はなぜかそこに目が行き、説明文にじっくりと目を通す。

この理論は簡単に言うと、量子力学の世界では実験を重ねることによってある電子の存在する“確率”自体は出せるが、しかし電子が100%存在する場所を特定することはできない、というものである。

何年も前に習い、当然のように自分の脳にインプットされてきたそれをもう一度認識しなおしてみると、何かとても、量子力学だけでなく自分にとってもとても、重要な理論であるかのように思えた。


不確定。

この一つの単語を頭の中で繰り返し、そしてはっとする。

そう、不確定なのだ。

予測し確率を出したところで、そこに求めるものは存在していないかもしれない。

予測や確率などはそういうものであり、そして必然という圧倒的な(そして恐らく神がかり的な)壁の前ではそれらはひどく弱く脆いただの指標にすぎない。

不確定なのだ。電子も、世界も、そして自分も。



『どうして天文学者の夢は諦めちゃったの?』



その答えがなんとなく、なんとなくわかったような気がして、そしてこの学問の道に進んだのもあながち間違ってはいなかったのだろうかと思えた。

しばらくの間目を閉じ、自分のことを考え過ぎた頭をシャットダウンしてその本をぱたんと閉じた。
(可笑しいことに、俺は研究のことは何時間でも考えていられるのに、自分のこととなると思考するのにひどく疲れてしまうのだった。)
そして二ヶ月分のレジュメ作りを今週中に終わらせなければいけないという課題を、頭の中から絞りだすように思い起こす。


ただ、その前に、衝動的に椅子から立ち上がるとエアコンを切り、そして部屋の窓を勢いよく開け放った。

夏の昼間の生ぬるい風が入ってくる。

俺は窓枠に手をついて、深く呼吸する。

冷え切った俺の肌に、その風は気持ちよかった。

ごく近く、そして遠くの方で、セミが何匹も鳴いている。

窓のすぐ外、手をのばせば届きそうなところで青々とした木の葉がさわさわと揺れている。
それはところどころ太陽の光を反射して、恐ろしく美しい映像を作り出している。

下の方からはキャンパスを歩く学生たちの声が聞こえる。

まぶたを閉じ、そんな夏の空気に浸る。


不確定なのだ。電子も、世界も、そして自分も。



「…さて、と」

しばらくして俺は机にもどり、レジュメ作りを再開した。

窓は開け放したまま。
エアコンはつけないまま。
少しだけ恍惚とした気分で。


明日、周助がうちに来る。

それまでには幾分か終わらせておこう、と考え、そして俺は先刻閉じた本をまたゆっくりと吟味しはじめる。




end(2006/07/12)

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