story

□彼女の場合
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彼女の場合
bliss






『実は人間も、月の引力の影響を受けてるんだよ』

『人間の体の大部分は水でてきているから』

『体内水分にも干潮、満潮があるんだ』

『月の引力の強まる満月の夜なんかは』

『だから月に引かれて、意思とは関係なく水分が溢れてくるんだよ』

『涙になって』


もうずいぶん前に彼が話してくれたこと。

不二君とあたしと貞治の三人で飲んだあとの帰り道で、空には綺麗な満月が浮かんでいて。

普段より少しだけ饒舌になっていた彼はそれを指さして、話してくれたのだった。

『らしくない話だね』

不二君はそう言ってくすくす笑った。貞治もそんな不二君を見て隣でふっと笑っていた。

『昔読んだ本の受け売りだ』

貞治が柄にもなくそんなことを言い出すので、きっと今日の飲み会は彼にとってとても楽しいものだったに違いないとあたしは思った。

事実、お気に入りのバーで過ごした3時間とちょっとはとてもとても楽しくて、不二君と今のように仲良くなれたのもあの夜があったからだとあたしは一方的に思っていたりする。

『本当の話なの?それ』

あたしは少しだけ汗ばんだ額を手で拭いながら、隣の貞治に聞いてみた。

彼をはさんだ向こう側で不二君が少し俯いているのが見えた。

『あぁ。確かに精神のバランスも乱れがちになるらしい。満月の夜は交通事故が多くなるっていうデータもあるし、羊水の関係で出産も多くなるんだと』

へぇ、と頷いて、それからあたしは夜空を仰いだ。

オレンジ色のような黄色のような、
なんともいえない色をして、ぽっかりと浮いているまるい月。

ふと思い立って、どうしてそんなことを知ってるの、と彼に聞いてみた。

『天文学者になりたいと思ってた頃があってな』

貞治はそう言ってひとしきりくつくつ笑った。そしてまた言葉を続けた。

『わかりもしないのに夢中で読み漁ったよ、物理や宇宙学の本を。ガキの頃の話だけどな。』

不二君はずっと俯いていた。
俯いて、でも貞治の言葉に耳を傾けて少し笑ったりしていた。

その横顔を見てあたしは、

あぁ、不二君も貞治のことすごく好きなんだろうな、って。
なぜか漠然と、本当に漠然とだけど、そう、思った。

そしてすごく幸福に思えたのだった。

自分達が。

こなにも幸せな三人がこの世の中に他にいるだろうかと。

そう思って、嬉しくなってあたしは、

くすくす、笑ったのだった。





「どうした?」

急にクスクス笑い出したあたしを見て、貞治は怪訝な顔をした。

「ごめん、なんでもない」

そう言いながらもあたしはしばらくそれを抑えられないでいた。

貞治の部屋。
パソコンに向かう彼。
ソファでくつろぐあたし。
午後十時。

「一年前くらいだっけ?覚えてる?ほら、不二君と三人でオルガンに行ったじゃない。あの夜のことを思い出してたらなんだか笑えてきちゃって」

オルガンというのはあのバーの名前だ。今も月に二、三回は貞治と一緒に通っている。

彼がどうしてまた、という目をしたから、あたしは「なんとなくなんだけどさ」と応えた。

彼は何も言わないでまたパソコンとにらめっこしだした。

今度受け持つ授業のレジュメ作りや何やらで、彼は今忙しいらしい。

「ていうか貞治ってそういえば天文学者になりたかったんだよね」

あたしはころりと横になった。
このソファは、あたしの体にぴったり合う。

思い出させないでくれ、と貞治は苦笑する。

「え、どうして?いいじゃない夢があって」

そう言ったあとで、もうその夢は今の彼にとっては夢でもなんでもないということに気づいて、だからあたしは「でも今は違う道に進んじゃってるけど」と付け足した。

「…まぁ、そういう時期もあったってことだ」

そういうお前は?

そう言って貞治はふう、と画面から離れて息をついた。そしてキーボードを打つのに疲れたのか肩を抑えて腕を回している。

「え?将来の夢?」

「あぁ」

「えーと、何だったっけ…小さい頃はケーキ屋さんって言ってた気がする。あ、でも、中学のときは音楽の先生になりたいな、って少しだけ本気で考えてた」

「へぇ」

そしてイスから立ち上がった貞治は、伸びをしながらこっちにやって来る。

「お前ピアノ上手いもんな」

「上には上が星の数ほどいるけどね」

そして。彼はあたしの顔を真上から覗き込む。

「今日泊まってく?」

「…決めてない」

「じゃ、泊まっていけ」

「ラジャー」

あたしは寝転がりながら敬礼のポーズをする。
貞治がふっと微笑み、あたしもくすくす笑ったあとで、お互い当然のように短いキスをした。

「…ねぇ、どうして天文学者の夢は諦めちゃったの?」

貞治の余韻の残る唇をなぞりつつ、そんな質問をぶつけてみる。

パソコンの前に戻っていた貞治はあたしのほうを見ないで、キーボードをかたかた鳴らしながら、ただ

「さぁね」

とだけ呟いた。






end (2006/07/07)

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