story

□不二の場合
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僕は。

彼のその言葉で、

いつかのあの夜を、

鮮明に、とても鮮明に思い出すことができた。






不二の場合
solace







周囲の期待に応え続けることを、もう重荷と感じなくなってきていた。
僕には実際それに応える力もあるし、そうしていくことで得られるものもあると思ってる。
終始笑顔でいることにももう慣れたし、僕はそうあるべき存在として皆に認識されているのも十分知っている。

だから、僕がこんなふうに不意に涙を流したりすると、
何も知らない人たちはとてもとても、驚いてしまうだろう。
何があったの、と。どこか悪いの、と。
恐らく血相を変えて、問うてくるだろう。

でも彼は、

彼だけは。

今、こんな風に、彼の隣に座る僕が不意に泣き出しても、

新聞を読むのをやめることなく、

組んだ足の上にそれを広げて、

空いた片腕を、僕の、肩にのせ、て。


そっと、

ただそっと、

抱き寄せてくれる、だけ。




午後六時。
夕日の差し込む部屋の中。
エアコンのたてる小さな音以外は何も聞こえない。

そして僕の隣の彼は、ただ、ひどく、優しい。





あぁ。

泣きながら、目を瞑って、僕は思った。

ゆっくりゆっくり僕の髪を撫でてくれている手は、
多分、僕が今一番欲しい手で、

僕が頭を寄せるこの肩は、
多分、僕が今一番欲しい肩で、

僕の隣のぬくもりは、
多分、僕が今、一番、本当に一番欲しいぬくもり、なのだろう。





あぁ
どうして涙が出るのだろう
どうして僕は泣いているのだろう

いつも僕を突き放すのは彼だ
僕を犯すのも彼だ
僕を裏切るのも
傷つけるのも、彼だ。

けれど
僕を甘やかすのも彼なのだ
僕の髪を撫でるのも彼。
優しくキスをするのも
僕をこんなにも安心させてくれるのも、
そして、愛してくれるのも
いつだって、全て彼、なのだ。


僕はどうしたいのだろう
僕はどうされたいのだろう
僕はどうなりたいのだろう

ただひとつわかるのは
僕は彼に溺れているということ。

ひどく溺れている

救いようのないくらい
溺れている。

彼女のように。



















「…周助、見てごらん」

不意に彼の声がした。

重いまぶたをなんとか開ける。


新聞のすみを指さす彼。


「今夜は満月だそうだ」


呟くように、彼は言う。


「…だったら、しょうがないよな」


そしてまたゆっくりと僕の髪を撫ではじめる。













「実は人間も、月の引力の影響を受けてるんだよ」

「人間の体の大部分は水でてきているから」

「体内水分にも干潮、満潮があるんだ」

「月の引力の強まる満月の夜なんかは」

「だから月に引かれて、意思とは関係なく水分が溢れてくるんだよ」

「涙になって」

















僕は笑った。

少しだけ笑って、

そして彼のとてつもない優しさに

もうどうしようもなくなって

僕はまた、彼のぬくもりにすがって泣いた。






end (2006/07/12)

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