ココロの世界

□信仰
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わたしは何度も言うようにカトリック信者です。ただ、自分の意志で教会に籍を置いたわけではありませんでした。思春期の頃はそのことに反発もしましたが、今ではわたしに洗礼を受けさせてくれた母に感謝しています。神社に奉仕しようと決心した時も、そして今もわたしは変わらずキリストを尊敬しているし、「主」の愛も感じます。「すべては主の御業」わたしはこの言葉を自分の運命の中で深く感じました。わたしが経験した今までのことを「偶然」の一言で片付けてしまうこともできますが、ではその偶然はどこからくるのでしょうか?この「偶然」こそが「主の御業」だとわたしは思います。例えばカトリックの信者でありながら神社に奉職が決まったとき、いくつもの偶然がそこにはありました。わたしの意思だけではどうにもならなかった偶然があったからこそ、わたしは奉職できたのです。この偶然を知ったときにわたしは「許されたのではないだろうか?」と思ったのです。神社の神様にも、「主」にも。けれど、やはり「背信」という言葉がわたしの脳裏から離れることはありませんでした。どんなに言いつくろったところで、わたしが「主」以外の神に仕えていることには変わりないからです。ただ1人の神に己の人生と魂を奉げ、永遠の愛を誓う。これが信仰なのでしょう。けれど、このような信仰を持てる人がどれだけいるでしょうか?キリストでさえゲッセマニの丘で信仰を貫こうと主に祈りました。そのときキリストの信仰は確かに揺らいでいたのです。揺らがない信仰は確かに理想です。しかし、揺らがない信仰しかない人生にどんな価値があるのでしょう?与えられたものをそのままなんの疑問を持たずにいる人生はそんなにすばらしいものなのでしょうか?人は迷い、過ちを犯し、神にすがるからこそ信仰もてるのだと思います。迷いも過ちも悩みもない人生などありえません。人の信仰は揺らぐものです。だからこそ少しでも揺らがない強い信仰を求め、成長をしようとするのではないのかと思います。わたしの精神もまだまだ成長の途中です。だから今は揺らいだ信仰で当然なのかもしれません。けれど、ここで「信仰なんて揺らいで当然だからしかたない」と切り捨てて考えることをやめてしまったらそれまでなのです。奉職しながら「信仰」「神」などについて考えるこの時間こそ神から与えられた大切な時間であり、必要なことなのだと思います。わたしに与えられた時間は三年間です。もし、もっと長い時間が必要ならきっと神様は与えてくれていたでしょう。高校を卒業してからすぐに奉職することもできたのですから。けれど、わたしは第一希望の大学に合格し希望した今の神社に入りました。きっと神様はわたしに「3年間で学べ」と言われているのでしょう。または、学びの第一段階を終えろという意味なのかもしれません。だから最近は精一杯いまの時間を大切にして生きたいと思うのです。

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