隣人と二度、恋をする

□chapter10.Baby,please don't goC
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次の週末は関東地方に台風が接近し、朝から大降りの雨だった。昼間なのに電気を点けなくてはいけないくらいに薄暗く、締め切った窓から冷たい雨の気配が入りこんでくる。庭は一面水飛沫で白っぽく見えるほどで、定春は犬小屋の中で小さく丸くなり、雨を凌いでいた。

「今晩は台風が直撃かい。店、どうしようかねえ」

茶の間で天気予報を観ていたバアさんは、そんな独り言を呟いた。俺は横になって漫画を読みながら、こんな天気に酒飲みに出掛ける物好きなんていないだろうと思いつつ、返答をするのが面倒で、聞こえなかった振りをした。

そのうちに雨は激しさを増し、ザアアと横殴りの雨になった。ガラス戸が頻りに鳴って、テレビの音をかき消すほどに喧しい。バアさんが舌打ちをして立ち上がり、雨戸を閉めに廊下へと姿を消した。だが暫くしても戻らないので、何かあったのかと思っていると、

「銀時」

と、バアさんは雨に濡れた灰皿を手に、俺を見下ろしていた。雨水の溜まった灰皿の中には、水浸しになった煙草の吸い殻がひとつ、転がっていた。

「この吸い殻。どうしたんだい」

それはいつだったか、爺さんが家に来た時に吸っていったものだった。バアさんが疑問に思うのは無理もない。十二指腸潰瘍で入院したのをきっかけに禁煙してから、今、この家に喫煙者はいないのだから。

俺が黙っていると、バアさんは何かを察したのか、小さく溜め息をついた。

「……次郎長が来たんだね」

バアさんは腰を屈めて、吸い殻をゴミ箱にぽいと投げ棄てた。

「全く男って奴は、てめえの後始末すらろくにできない生き物だね。銀時、今後あたしに断りもなしに、勝手に他人を家に上げんじゃないよ」

その言い種は、しょうがない奴だなと、少しの愛情が垣間見えるものだった。それなのに、まるでわざと無関心を決め込むかのように、“他人”なんて言葉を使うのが癪に障った。

「他人なんて言うなよ」

俺は漫画を閉じて起き上がった。

「ちゃんと、爺さんと話すれば。ヤクザが店に来るのが嫌なら、家に来るんだったらいいんだろ。あの人、昔から……あんたが結婚してからも、今でも……あんたのこと、思ってるよ」

爺さんのことを応援したいと思っていながら、なんて拙い言葉でしか伝えられないのだろう。国語を教えているくせに、俺の語彙力は悲しくなるくらい乏しい。
するとバアさんは、小馬鹿にしたように鼻で嗤って、ばんと乱暴な音をたてて灰皿を置いた。

「何言ってんだい。旦那が死んでから、三十年以上経ってんだよ。三十年。銀時、あんたが産まれる前から、あたしは独りで生きてんだ。今更、あいつがどうこうしようったって、もう遅いよ」
「気持ちを伝えるのに、遅いも早いもねェだろーが」

俺は立ち上がった。いい大人、もとい、いい年寄りの意固地のために、どうして俺が一肌脱がないといけないのだろうと思いながら、真っ正面からバアさんと向き合う。

「そうやって突っぱねようとすんのは、本当はずっと、爺さんが来るのを待ってたからなんじゃねェのか?入院した時、見舞いに来てくれて嬉しかったんだろ。花貰った時のこと、思い出してみろよ。意地はってねェで素直になれっつの」
「こんなババアに、素直もクソもないよ」
「そーいうのを意地っ張りって言うんだよ!」
「しっつこいね!いい加減にしないと怒るよ!!」

バアさんは目を見開いて、腹の底から声を張り上げた。もう怒ってんじゃねーかと思いながら、グッと口に重石をする。本心を言い当てられたから、むきになって怒っているのだ。女は何歳になろうが、怒るとヒステリックになって冷静さを欠くものだ。

だが、ここで食い下がる訳にはいかない。フラフラしていた俺を家に呼び、面倒を見てくれたバアさんに、もう独りでいて欲しくない。支えになってくれる人の側で、心を許せる人の隣で、幸せになって欲しい。

さて、どう説得しようかと悩んでいると、ポーンと音がして呼び鈴が鳴った。

「……誰だい、こんな雨降りに」

バアさんと俺は顔を見合わせた。揃って玄関に行くと、そこには渦中の人物が、雨の匂いを連れながら立っていた。

「随分とデケえ声で喚いてやがったなぁ。親子喧嘩かい」

そう言って薄ら笑いを浮かべるのは、爺さんだった。雨の中を歩いてきたのだろう、上着の肩のあたりがずぶ濡れで色が変わっていた。水浸しの靴から雨が溢れて、足許には早くも水溜まりが出来始めている。

突然の来訪者に、バアさんは声もでないほど驚いていた。驚いたのは俺も同じだった。外はざんざんと音をたてて、激しい雨が降っているというのに。

「何やってんだよ、こんな天気に……」
「こんな天気だからこそ、家にいるんじゃねえかと思ってよぅ」

爺さんはにやりと笑った。呼び鈴も押せずに家の前を彷徨いていた時とは別人のようで、きっと、腹を括ってここに来たのだ。白目の際立つ瞳は、凄んでみせるような鈍光を留めて、ひたりとバアさんを見据えていた。

それに対してバアさんは動揺のあまり、逃げ場を探す兎のような、怖じ気づいた目をしていた。ここまで来られたら、家に入れるか、土砂降りの中に追い返すかどちらかしかない。

バアさんは家の中を見て、玄関の外を見て、それから何を思ったのか、突然玄関の引き戸をいっぱいに開けた。びゅおおおと酷い音がして、雨混じりの冷たい風が家の中に吹き込んでくる。なんとバアさんは濡れるのもお構いなしに、焦りの混じった動作で下駄に脚を引っ掛けて、外に出ていこうとしていた。

「あたしゃ、あんたと二人で話すようなことは何もないよ」
「ちょっ、オイ!どこ行くんだよ!!」

ここから逃げるつもりだ。そう気付いて俺が引き留めるより早く、にゅっと浅黒い手が伸びて、バアさんの手を掴んだ。

「行くな」

爺さんだった。その声は、ざんざんと煩い雨音をかき消すように、強い意志を持って明朗に響いた。

「行くなよ。こんな雨の中に、一人で出ていくな」
「………………」

バアさんは立ち止まり、黙って俯いていた。さっきまで俺に対してギャンギャン喚いていた時とはうって変わって、急にしおらしい空気になる。
皺だらけの手が、静かに爺さんの手を払い除ける様子を見て、これはチャンス到来だと、俺は胸のなかでガッツポーズを決めた。

「ババア。逃げんなよ。ちゃんと、話せよ」

小声で告げてから、傘も持たずに家を飛び出す。玄関の引き戸がゆっくりと閉まる様子を見届けてから、一先ず雨をしのげる場所を近場に捜そうと、雨の中をひた走った。

大粒の雨は肌に容赦なく当たり、パシッパシッと音を立てて跳ね返る。大きな水溜まりに差し掛かり、飛び越えるのに失敗してしまってから、靴の底から冷たい雨がじくじくとしみ上がってきた。泳ぐように、雨の中を闇雲に進みながら、むしょうに叫びたい衝動に駆られた。

―――気持ちを伝えるのに、遅いも早いもない。

―――逃げるな、話せ。

バアさんに向けたその言葉は、痛いほど肌をうつ雨よりも、足の裏から伝わってくる冷たさよりも、何倍もの鋭さを増して俺自身の胸に突き刺さった。

本当は、言いたかった。声の限りに叫びたかった。高校時代の高杉に、楓に、どうか、どうか行かないでくれと。俺を独りにしないでくれ、と。
伝えていればよかった、大切なのだと。後悔するくらいなら、ちゃんと言わなければ。本当に大事なことは、自分の言葉で、伝えなければならないのに。

今からじゃあ、追いかけても追いかけても、きっとアイツらには追い付けやしない。



(chapter10 おわり)
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