鬼と華

□胡蝶之夢 第五幕
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出発の朝、薫は久しぶりに化粧をした。
白粉を薄くはたき、頬紅をさして紅緋の口紅をひく。髪を華やかに結い上げて、花の飾りのついた簪をさした。いつか、花のように隣で咲いていてほしいと晋助が言ったとおり、彼が思い描く姿であろうとした。最後のこの日は、目いっぱい美しくありたかった。

姿見で己の姿を見ると、膨らんだお腹のせいでおはしょりが浮いてしまっていた。お腹を撫で、こればかりは致し方ないと薫が微笑むと、お腹の子が元気な胎動を伝えてよこした。


鬼兵隊の船は、夜のうちに京に程近い船着き場へと到着した。早朝、外は冷たい空気が肌に跳ね返るような寒さだった。夜の濃い闇は彼方に追いやられ、東の空から差し込む夜明けの光が、甲板を青白く照らしていた。
普段は船員たちが忙しなく動き回る船の甲板が、その日は水をうったように静かだった。一目でそれと分かる、赤子を身籠った姿の薫を、隊士や船員たちは総出で見送りをした。晋助に手をひかれ、船から降りてゆく彼女の姿を、彼らは一言も発することなく見守っていた。


万斉と武市は船の下まで降りて、薫と別れの言葉を交わした。

「さようならは言いませんよ。またきっと、会う時が来るでしょう」

と武市が言い、薫に手を差し出した。

「お身体に気を付けて。元気な赤ちゃんを産んでください」
「はい」

薫は武市の手を握り、頷き、それに続く言葉を捜した。こんな風に改まって仲間と向き合うことなど、今まであっただろうか。今が別れの時だと分かっているのに、かける言葉のひとつも浮かばない。

彼女は武市を見上げていた視線を、隣の万斉へ移した。彼は相変わらずサングラスで瞳を隠しており、薄藍色の空が一かけら、そこに映っているように見えた。
彼に、伝えたいことは沢山ある。伝えておかねばならないこともある。晋助の右腕でもある彼には、どんな死地にあっても晋助の背中を護り、もし万が一の時には、晋助の代わりとなって鬼兵隊を導いてほしい。かつて粛清で仲間を失った薫にとって、それは何よりも重要なことだった。

様々に思いを巡らせていると、彼女より先に、万斉が口を開いた。

「晋助のことは任せろ」

彼はきりりとした、力強い声で言った。

「鬼兵隊は、拙者らが決して終わらせぬ」
「……はい」

薫は何度も何度も頷いた。晋助や彼女を側で見てきた万斉には、彼女の願いは言わずとも伝わっていた。彼の短い約束は、信じるに十分だった。


薫と付き添いの晋助を下ろして、船は一足先に江戸へと戻り、倒幕へ向けた最後の調整にかかることになっていた。出発に備えて、ゴウ……と船の動力が動き、見送りの船員たちが出航の配置につき始める。
彼女はちらりと船を見上げて、肩を落とした。甲板にも何処にも、また子の姿がなかったからだ。

薫が船を降りことになったと知ってから、また子は部屋に閉じ籠りがちになり、顔を合わせようとしなかった。彼女自身、また子に対して妊娠を伏せていたことを、心の何処かで後ろめたく思っていた。そして船を降りると伝えるのも、自分の口から伝えようと思いながらなかなか伝えられず、結局は人づてにまた子の耳に入ることになってしまった。

複雑な表情を浮かべている彼女を気遣って、武市が溜め息交じりに言った。

「見送りくらいはしなさいと言ったのに……。あの頑固娘、意地でも降りて来ないようですな」

薫は小さく首を振り、船を仰ぎ見て唇を噛みしめた。仲間というよりも、また子との間にあるのは友情、親愛に近いものだった。それゆえどうしても離れがたく、正直に別れを切り出せなかった。
例えば、新しい化粧道具をわくわくしながら試す時や、寝付けない夜にとりとめのない長話をする時、常にまた子の姿があった。船で暮らす日々のささやかな幸福は、いつも彼女とともにあった。せめて感謝の一言だけでも、自分の口から伝えておきたかった。

「まるで、本当の妹のように大好きでしたと……また子さんに伝えてください」

薫の言伝を預かって、万斉と武市は手を振りながら船へ戻った。そして出立の準備が整うと、船は砂埃を巻き上げながら、藍白の東の空へと飛び立った。

仲間達と共に過ごした船の姿を目に焼き付けようと、薫は船を見送った。その時、ゴウゴウというエンジンの音に混じって、微かな声が聴こえてきた。

「……さん!……姐さん!」

目を凝らすと、砂埃の混じる風の向こうに、また子の姿が見えた。甲板から身を乗り出すようにして、金色の髪が風に靡いている。彼女は目を真っ赤に腫らして、涙をボロボロと溢していた。

「……また子さん……!」

また子は必死に、何かを話しているようだけれど、その声はエンジンと風の音にかき消されて、薫の耳までは届かなかった。船は徐々に上空へと遠ざかり、やがて彼女の姿も、船の縁に隠れて見えなくなってしまった。

どん底からこみ上げてくる淋しさに、薫は自分自身の肩を強く抱いた。自らの意思で、納得して船を去るのだ。涙は見せまいと決めていたが、鼻の奥がツンと痛く目頭が熱くなる。
薫自身にとって、どれだけ大切な人々に囲まれていたのか、この日になって思い知る。彼女の住処は、仲間とともに過ごした船にあったのだ。




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