隣人と二度、恋をする

□chapter2.Where do my bluebird flyB
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初めは、銀時が帰って来たのかと思った。ようやく孤独な空間から解放されると、喜んでロックを外して鍵を開けた。
だが、そこにいたのは銀時ではなかった。

「昼間は、悪かった」

黒縁の眼鏡をかけた隣人が、そう言って所在無げに佇んでいた。彼は拍子抜けするほど素直に謝ってから、

「あと、うまかった」

と、レーズンとクルミのパンの感想を付け加えた。
すると不思議なことに、あれほど私を悩ませていた汚泥のような気持ちが、彼の短い言葉でするすると水に流れていくのが分かった。私は遠慮がちに訊ねた。

「……もしかして、あの時、寝起きでした?」
「いや、その逆だ。朝方まで仕事してて、寝付いたばっかりだった。嫌な態度取っちまって、悪かった」
「なんだ、そうだったんですね。こちらこそ、タイミングの悪い時に押しかけてしまってごめんなさい」

お互いに謝罪の言葉を交わして、私の心は羽根のように軽くなった。さっきまで、後悔に苛まれて死にそうだったのが嘘のようだ。

気持ちが晴れてきたせいか、ふと大切なことが頭に浮かんだ。明日の朝、ペアの青い鳥のお皿を使えなかったら困る。

「あの……渡したパンのお皿、取りに行ってもいいですか」
「あァ。珈琲でも飲んでけよ」

彼は快く言って微笑んだ。彼がもし、昼間の態度を悔いていなかったら、わざわざこうして謝りになんか来なかっただろう。謝りに行くべきか、彼も悩んで葛藤したのかもしれない。謝ってくれたこと以上に、彼も私と同じように迷い後悔していたということが、嬉しかった。


部屋を出る時に携帯を見ると、銀時からのラインの返事が来ていた。

“試合終わった。これからバスで戻る”
“生徒と晩飯食ってくから、帰りは遅くなる”

クマが謝るポーズをしているスタンプとともに、そんなメッセージがあった。私はどこかでホッとしながら、携帯をポケットにしまって、部屋の鍵を閉めた。



***



501号室に入って、初めて気付いたことがある。どうやらこのマンションは、角部屋の間取りが他と違うようで、寝室の他にもう一部屋あるようだった。

廊下を進むとキッチンとリビングがある。彼はまっすぐキッチンの方へ姿を消した。彼の後に続きながら、寝室ではない方の部屋のドアが、少しだけ開いているのに気付いた。好奇心に負けてちらりと中を覗いて、私はあっ、と声をあげそうになってしまった。

そこは、本の海だった。四方の壁が高々とした本棚に囲まれており、辞書や洋書、画集、隙間がないほどに本で埋め尽くされていた。そしておそらく棚に入らなかったであろう段ボールが、幾つも床に平積みになっていた。部屋の中央には、簡素な椅子とテーブルが置かれていて、小さなノートパソコンの、ぼんやりとした白い明かりが部屋の真ん中を照らしていた。

小さな図書館を通り過ぎると、リビングはソファーとテーブルがあるだけのシンプルな部屋だった。彼はキッチンでお湯を沸かしながら、ソファーを指して言った。

「座ってろ。ブラックでいいか」
「はい」

我が家のキッチンは調味料やら洗剤やらでごちゃごちゃしているのに、彼の部屋のキッチンは、使っているのか疑わしい程きれいだった。家具と呼べるものは少なく、あまり生活の匂いがしないものだから、ますます本の部屋の異様さが際立った。あれは、趣味と呼べる範囲の量ではない。本に関わる職業なのだろうか。
湯気ののぼるマグカップを持ってきた彼に、私は遠慮を忘れてつい、訊ねていた。

「そこのお部屋……」
「ん?」
「すごい量の本ですけど、もしかして、本を書くお仕事されてるんですか」
「そんなご立派なモンじゃねェよ」

彼は私との間に、人ひとり分の隙間を開けて座った。カップを口許に運ぶ、俯きがちな横顔がきれいだった。

「短い文章を色々書いてる。情報誌の特集記事だったり、週刊雑誌のコラムだったり……頼まれりゃあだいたい何でも書く。たまに、下品なやつもな」

いわゆるフリーライターと呼ばれる職業なのだろう。彼に生活の気配がない理由が、ようやく分かった。彼は一日の多くを、照明も満足に届かないほど本に埋もれた仕事部屋で、文字と向き合って過ごしているのだ。朝方まで仕事をしていたと彼が言ったのは、夜の間じゅう、あの空間に閉じこもっていたに違いない。

彼の繊細な指先がタイプするのは、一体どんな文章なのだろう。秀麗な面立ちの裏側で、どんな感性で言葉を選ぶのだろう。
静かに珈琲を飲む彼の横顔を見つめていると、今度は、彼が私に質問をした。

「お前は?学生じゃないんだろ」
「区役所で働いてます。この四月からは、広報の仕事をしてます」
「広報っていうと?」
「区政のイベントの運営とか、区のホームページの管理とか……あと、広報誌を作ったりとか」
「へェ。ならお前も一応、文字書きって訳か」
「そんな」

私は思わず笑って、両手を振った。

「広報誌って、区政たよりのことですよ。施策とか事業の担当部署に原稿を発注して、あがってきたものをとりまとめて印刷にかけるから、自分で書くことは滅多にないもの。文章書きの端くれにもなりません」

会話はそこで途切れた。私の渇いた笑い声の余韻だけが部屋に響いた。
急に訪れた沈黙の気まずさに、私は珈琲を一口含みながら、ずっと知りたかったことを口にした。

「私、秋山楓っていいます。あなたは?」
「高杉。高杉晋助」

タカスギシンスケ。忘れないように、心のなかで復唱した。有名なライターなら、ワイドショーで話題になる週刊誌を開けば、彼の書いたものが読めるのだろうか。そう思っていると、

「雑誌に書くときは、幾つかペンネーム使い分けてる。高杉の名前で捜しても、見つからねェよ」

読み透かしたように言われて、私は肩を竦めて微笑んだ。

名前を知った。何をしている人かも知れた。そのことで私は十分に満足していた。昨晩、名前も知らない隣人との刹那的や交わりは、彼の名を知ったことで、きっと鮮やかに記憶に刻まれるだろう。隣人と私の、二人だけの秘密として。
私はカップをテーブルに戻して立ち上がった。

「珈琲、ごちそうさま。じゃあ、お皿持って帰ります」
「何だ。お喋りするだけで終わりか」

終わり、という言葉に引っ掛かかった。昨晩、“まだ終わってない”、彼はそう言って私を呼び止めたからだ。
ソファーの背凭れに背中を預けて、彼はじっと私を見つめていた。切れ長の瞳は、射貫かれてしまいそうに強い光を宿している。立っているのは私なのに、見下されているような気分になるのは何故だろう。

「昨日、お前、途中で逃げただろ」
「逃げたつもりは……」

私は小さく首を振った。威圧感に居たたまれなくなって、片腕で肩のあたりを抱いて視線を反らした。

「相手がいてやってる以上、終わったかどうかはお前だけで決めることじゃねェんだよ。少なくとも俺は、まだお前を抱くつもりでいた」

彼が選んだ表現に、カアッと頬が熱くなった。昨日の私達を、どんな言葉で表すのかは彼の勝手だけれど、満たされない欲求を紛らわすための一晩の過ちにしては、その言い草はまるで、本物の恋人同士の会話のようだった。
どぎまぎしながらその場に立ち尽くす私に、彼は手を差し伸べた。

「今日は、どうするんだ。あっちの部屋に行くか」

あっちの部屋、というのが寝室を指していることくらい、私にも分かった。

「……私、そんなつもりで来たんじゃありません」
「じゃあ、帰るのか?」
「………」

はい、帰ります、と言えない雰囲気を作っておきながら、なんて意地悪な人だろう。うっすらと煙草の香りを漂わせて、艶を含んだ声で選択を迫られれば、否が応でも昨晩の出来事を思い出して体が火照る。
今夜は、銀時が帰って来るというのに。私は昨日から、おかしくなってしまったのかもしれない。



(Cに続く)
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