鬼と華

□水天一碧 第五幕
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晋助の療養が終わり、いよいよ白浜を離れる時がやってきた。出立の仕度をしながら、薫は七日前、白浜に来た時のことを思い出していた。晋助の安否を案じるあまり、一刻も早く辿り着きたいと、焦りと不安に掻き立てられて急ぎ足だった。ところが七日間を過ごした今、春林軒を発つ足取りは重かった。数々の想い出とこの地への愛着が、重石のように足にまとわりついているようだ。

華岡に別れを告げ、春林軒の門を出たところで、幼い姉妹が姿を見せた。薫のことを天女と言った姉妹である。薫と晋助が手荷物を提げているのを見るや、彼女たちは目を丸くして言った。

「お出かけするの?どこへ行くの?」
「遠くに行ってしまうの?」

口々に問うので、晋助が微笑んで答えた。

「天女さまを空に帰してやることにしたのさ」

これから船に戻ることを思えば、空に帰るという表現もあながち間違いではない。それを聞くなり、姉妹はパッと散るように駆け出すと、どこに隠していたのか、形のきれいな貝殻を両手に溢れんばかりに持ってきた。

「まあ、きれい」

薫が感嘆の声を上げると、姉妹は彼女の目前に貝殻を差し出した。

「これ、わたしたちが集めたの。お空へのおみやげにして」
「くれるの?私に?」

彼女が驚いて訪ねると、幼い姉妹はこくりと頷き、満面の笑みで言った。

「また遊びに来てね。待ってるから」

ツンと目の奥が熱くなるのを感じながら、薫は微笑んで貝殻を受け取った。それから身を屈めて、順番に姉妹をそっと抱き締めた。彼女たちの柔らかな髪からは、爽やかな潮風と、太陽のあたたかい香りがした。

「どうもありがとう。また、いつか」


晋助と薫は少女たちと別れ、白浜海岸に出た。雨が降ったせいか、水分を含んだ砂浜は踏みしめると砂利のような音がした。海沿いに出た途端、風が潮の香りを強く含んで吹き付ける。

「そろそろだな」

晋助が懐に忍ばせた小型の通信機をちらりと見た。海岸沿いで鬼兵隊の船と落ち合うことになっていたので、薫は目を細めて船の影を捜した。

暫くして、水平線の彼方から一隻の船艦が姿を現した。仲間達を乗せた船だという喜びと、とうとう白浜に別れを告げる時がきたという淋しさが同時に胸に押し寄せた。ゆっくりと近付く船が、見慣れた姿形を徐々にあらわにしてゆく。

その時、背後にザッと砂を踏み締める音がした。振り返ると、鴨太郎が立っていた。まさか鬼兵隊の仲間と落ち合う場面を見られるとは思っていなかったので、薫は驚いて声をあげた。

「鴨太郎様!」

急いで走ってきたのか、鴨太郎は肩で大きく息をしていた。彼は額に浮かぶ汗を拭いながら、

「あなた方に、最後にお礼を伝えたくて追いかけてきましたが……」

と、驚きの表情を浮かべて空を仰いだ。鬼兵隊の母艦は速度を落としながら海面へと降りていき、とうとうその全容を明らかにした。貨物船ではない、旅客船でもない、戦いに備えて武装した、攘夷派浪士の根城となる船である。

大砲を構えた船首を背景に、晋助が悠然とした表情で仁王立ちになる。接近する船が巻き起こす強い風に、唐草模様の羽織が音を立ててはためいた。その光景は、彼が並大抵の男ではない、とてつもなく大きなものを手中に収めていることを物語っていた。

やがて、船は激しく水飛沫を上げながら海面に着水した。甲板に大切な仲間の姿が見える。武市と万斉の間に立って、また子が大きく手を振っていた。

「あれは、一体……」

鴨太郎が呆然とした様子で問うと、晋助は不敵な笑みを浮かべて言った。

「てめえの目で確かめてみるかい。塾頭さん」



***



海岸や野山がぐんぐんと遠ざかる。上空に向かうにつれ、風が音をたてて噴き上げる。船の動力が足許から伝わり、踏ん張っていないと風に持っていかれそうだ。鴨太郎は柵を握り締め、緊張した面持ちで下界を見下ろしていた。

「空からの景色は、このようなものなんですね」

隊士でもない、療養地で知り合った青年を船に乗せることに、万斉と武市はいい顔をしなかった。だが、深川道場の塾頭という肩書を伝えると、そこに晋助の何らかの意図を察したのか、鴨太郎を船に迎えることを承諾した。

晋助は煙管を片手に、風の中に堂々と構えて立っていた。彼は紫煙をくゆらせながら、懐かしそうに目を細めた。

「初めて船に乗った時の景色は今でも忘れられねェ。これまでとは違う世界へ飛んで行くような高揚感に包まれて、胸が躍ったよ」

と、彼は鴨太郎の隣に立って尋ねた。

「これから船は江戸へ向かうが、お前は道場に戻るのか?」
「それ以外に、どこに戻る場所があるというんですか」

鴨太郎は半笑いで答えた。

「白浜で兄を看とり、次に僕がすべきことは、七日間留守にした道場で再び指導にあたることです。弟子達が僕の帰還を待っている筈ですから」
「俺が言いてェのは、名門道場の塾頭の地位で満足していれば、それまでの人生だって事だよ」
「……どういうことです?」
「塾頭として後進を育てるのも確かにご立派なことだが、この世界は上を目指せば更に上がある。あんたは剣術の腕もいいし頭もいい。北辰一刀流免許皆伝という肩書きは何処にいっても通用するだろう。例えていうなら、この国の政治の一翼を担うくらいの実力はあるに違いねェ」

晋助の発言に鴨太郎の瞳が揺れた。自らの能力を認めて称賛される、それは誰だって悪い気はしないものだが、彼は小さく首を振った。

「塾頭の職務を全うしないまま、中途半端に立場を捨てるのは、道場の弟子達に迷惑が……」
「じゃあ訊くが、てめえが留守にしている間、道場から便りはあったかい?」

そういえば、と鴨太郎は思った。白浜に滞在している間、道場に宛てて何通か書簡を送ったにも関わらず、返事は一度もなかった。

「戻ったら、あんたの居場所はそこにあると断言できるのか?あんたに相応しい居場所は何処なのか、あんたが本来の力を発揮するにはどうすればいいか、答えを見極めるのにいい機会だと、俺は思うがね」
「僕は……」

晋助の言葉に、鴨太郎は定まらぬ答えを模索するように、言葉を選びながら言った。

「兄の分までしっかりと生きよう、兄が出来なかった事を成し遂げよう、そう決意しましたが、それが具体的にどんなことを指すのか、どうすれば実現できるのか……。まずは、自分の納得する道を捜すことから始めなければいけないのかもしれない」


甲板で語らう二人の姿を、薫は遠巻きに見つめていた。鷹久の前での剣術試合を経て、二人の間に何かしらの絆が生まれたのだろう、彼女はそんなことを考えていた。後々、晋助が鴨太郎を倒幕の駒として利用するなど、その時彼女は思いもしなかったのである。




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