鬼と華

□水天一碧 第五幕
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帰船してから間もなく、薫はひどい眩暈に襲われて倒れ、高熱を出して寝込んでしまった。流行遅れの疫病に罹患したのではないかと船内は大騒ぎになり、すぐさま船医が呼ばれた。皆たいそう心配したが、診察の結果は流行病でなく、おそらく疲労が蓄積されて風邪をひいたのだろうということだった。彼女には数日間の安静が言い渡され、寝室で熱にうなされ臥せることになってしまった。

一方、また子はたいそう怒っていた。彼女は薫の寝室に水や食事を運び、率先して身の回りの世話を焼いていたが、薫の顔を見る度にぶつぶつと小言を呟いていた。

「姐さんってば、勝手に船を出ていったと思ったら、帰って来た途端にぶっ倒れるってどういう事ッスか。マジ信じられないッス」

確かに薫自身で招いた結果だが、どうやら彼女は、急激な環境の変化に耐えられるほど頑丈ではなかったようだ。寝そべった彼女は、熱でぼうっとする頭でぼんやり天井を見上げた。低く鳴り響く機械音。微かに漂う燃料の匂い。金属の冷たい壁。住み慣れた船なのに、ああ、とうとうここへ戻ってしまったのだ、ここは白浜ではないのだという落胆に、気分がどんよりと沈んでゆく。

また子が枕元の水を新しいものに取り替えていたので、薫は首を傾けて彼女に訊ねた。

「また子さん。晋助様と鴨太郎様は……?」
「あの二人なら、とっくの前に何処かに出かけたッスよ。多分、晋助様は当分戻らないッス」
「……そう」

薫は短く答えて目を閉じた。白浜で、四六時中晋助の側で過ごした日々は終わってしまったのだ。彼がいようといなかろうと船の空気は変わらないのに、彼の気配のない船はまるで空っぽの箱のように感じる。また子を始めとした仲間達は大勢いるのに、一番大切な人が側にいないことの寂しさがじわじわと染み渡った。

すると、また子が彼女の傍らに座り、覗き込むようにして訊ねた。

「姐さん、晋助様が療養してた白浜って、どんな所ッスか」
「そうね……」

七日間の様々な出来事が頭を過る。どんな言葉で伝えたらよいか、熱にうかされた頭でそれを考えるのはなかなか困難な事であった。
出発の日、幼い姉妹から貰った貝殻を思い出す。うっすらとした縞模様がきれいで、微かに潮の香りのする貝殻は、白浜の想い出そのもののだった。海や空の透き通る青さや、白く眩しい砂浜がありありと脳裡に浮かび、頬を撫でる柔らかな風までもが蘇る。

「美しいところだったわ」

白浜の記憶に浸る薫をじっと見つめながら、また子が静かに呟いた。

「晋助様と姐さんが戻ってきて、本当に良かったッス。私、鬼兵隊のみんなに内緒で、二人で何処かに行っちゃうんじゃないかって心配してたッスよ。二人で行方を眩ませて、船に戻ってこなかったらどうしようって」
「……また子さん」
「でも、万斉先輩にそれを言ったら、もし晋助様がそんな事をするような男なら、最初から鬼兵隊なんか作らないって笑われたッス」

また子は自分自身が納得するように頷いてから、

「晋助様だけならまだしも、姐さんが七日間も船を留守にしたのは初めてだったから……。私、余計な事ばっかり考えてたッス」

と、肩をすくめて笑ってみせた。
薫は彼女の笑顔を見てはっとした。晋助と平穏に暮らしたいと思う一方で、総督として鬼兵隊を率いる彼の姿に心から思い焦がれ、同じように彼を慕う仲間達が大勢いるのだ。彼らは常に薫の側にいて、決して孤独ではないのに、理想と現実が相容れないなど、何て贅沢なことを考えていたのだろう。仲間達の信頼を無碍にするのと同じである。

「……っ」

自分の愚かさに、堪えきれずに嗚咽が漏れた。また子がそれに気づき、心配そうな顔で首を傾げる。

「姐さん?大丈夫ッスか?」
「……何でもないわ。ちょっと、悲しい事を思い出してしまっただけ」

また子の思いやりがなおのこと苦しくて、薫は肌掛けで顔を覆って涙を隠した。“戻ってきてしまった”なんて思うのはもうやめようと彼女は誓った。彼女の日常にも、かけがえのないものが数えきれないほどあるのだ。


数日後、解熱してから、薫は姿見の前で着物を脱いで己の背中を見た。愛し合った時、晋助が幾つもつけた赤い痕は、白浜にいる間はくっきりと残っていたのに、今は何の痕跡もなく、元通りの白い肌に戻っていた。
痕は消えても、白浜で過ごした想い出は確かに記憶に残っている。船に戻ってから、あれは束の間の夢だったろうかと何度か思ったけれど、白浜の美しい景色と、双子の兄弟の様々な表情は、切ないほどに胸に刻まれていた。




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