SHORT STORYA

□First love
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明日上京する″

短いメールが届いたのは木曜の夜のことだった。退社してすぐ、電車の中で気づいた。
差出人を見た瞬間、どくんと心臓が音をたてる。高杉晋助。学生時代に付き合っていた、昔の恋人からだった。

別れてから四年も経つのに、どうして今頃連絡をよこしてきたんだろう。汗ばんだ指先で、画面をタップする。

久しぶりだね″

元気だった?とか、仕事はどう?とか、書くことは幾つか浮かんだけれど、彼のメールはいつも用件だけで簡潔だったことを思い出す。私はその一文を消して、打ち直した。

時間があるなら、会いたい。″

返事はすぐに来た。

八時に時計台で″


   〜 first love 〜


金曜になると、今日頑張れば明日は休みだというモチベーションでいつもより仕事が捗る。
でも、その日は違った。夜、高杉君と会うことを考えると朝から仕事が手につかなくて、時間ばかりを気にして過ごした。そして七時を回ってからはとうとう待ちきれなくて、小走りに会社を後にした。

待ち合わせの場所に着いたのは、約束の時間の30分も前だった。時計台を見上げる。この場所は、私のアパートと高杉君のアパートの中間地点で、出かけるときに待ち合わせをする定番の場所だった。時計の長針が八時に近づく度、気持ちは学生の頃に逆戻りしていく。

初めて高杉君を見たのは、上京して入学した大学一年生の春、講義室の中だった。端整な横顔と近寄りがたい雰囲気があって、いつも独りで行動していることが多かった。講義の合間、学生たちがたむろする喫煙所を避けて、こっそり駐車場の隅で煙草を吸っているのを見かけたときは、秘密を知ってしまったみたいにドキドキした。私の初恋だった。
話しかけてみたかったけれど、女子高出身の私は男性とは縁遠く、遠くから見続けるまま二年が過ぎた。そして三年生の夏、同じゼミに入ったことをきっかけに死ぬ気で告白して、奇跡的にOKの返事をもらった。

とびきり美人でもない、私みたいな地味な女とどうして付き合う気になったのかわからない。それでも、二年越しの片思いが実ったことに有頂天だった。就活や卒論も、好きな人と同じ境遇で頑張っていると思うと、しんどい時も乗り切ることができた。
けれど卒業後、私は都内の中堅企業の事務職に、高杉君は大手メーカーに就職して関西支社に配属。社会人としての慣れない日々と重なって、遠距離恋愛という溝は私達にはあまりに深かった。卒業して半年経つ頃には、全く連絡を取り合わなくなってしまった。

それから四年、付き合った人は何人かいるけれど、誰とも長続きしなかった。理由は自分でも何となくわかっている。初恋の人との自然消滅が、ずっと心の中に引っかかっているのだ。

久しぶりに逢うあの人に、私は笑顔で話せるだろうか。

(まだ来ないのかな……)

時計台の針は八時を過ぎている。時間にはマメだった彼ならば、遅れるなら連絡があるはず。そう思って携帯を見ようとした時、突然背後から声がした。

「オイ」
「ひゃあ!」

びくっとして飛び上がり後ろを振り向くと、そこにはスーツ姿の高杉君がいた。

「いっ、今来たの?」
「いや」
「ウソ!いつからそこにいたの?」
「十分前から。全然気付かねーのな、お前」
「うん……」

紫がかったネクタイと、黒の細身のスーツがよく似合っていた。
学生の頃よりもずっと大人びた姿を直視できず、私は困って自分の手元を見るように俯いた。けれど、

「行くぞ、佳澄」
「あっ、待って!」

先に歩き出した高杉君はとても自然で、そわそわして思いを巡らせていた自分が可笑しかった。学生時代の友達と久しぶりに会うのだと、そう思えばおのずと笑顔が浮かんできた。


昔何度か行ったことのある、落ち着いた雰囲気のお店で、私たちはカウンターで乾杯した。

「高杉君、どうして東京に来たの?」
「本社で研修があってな」
「もしかして昇進するとか?」
「まあ、そんなところ」
「そうなの!すごいね!」

昇進のしの字もまだない私にとっては、なんだか遠く感じていまう。東京と関西、離れた場所で生活し、異なる業種で働く有能な元恋人と共通の話題はあるだろうか。昔の思い出話なんか湿っぽくてできないし、何を喋ったらいいのかと手に汗がにじむ。

その時、なんだか視線を感じるなと思って辺りを見ると、テーブル席の女子会っぽい女の子達や、隅のカウンターのお姉さん方が、時折高杉君を盗み見るように目線を投げかけていた。
気持ちは分からなくもない。私だって、入学した時から付き合うまで……いや、付き合うことになってからも、私の目線はいつも高杉君に吸い寄せられていた。

暫くして、彼は胸ポケットに手を入れると、トンと煙草を取り出して言った。

「吸っていいか?」
「うん。昔から変わってないんだね、煙草」

何度名前を聞いても忘れてしまう、外国の銘柄の煙草。甘くてほろ苦い香りが鼻孔をつく。煙を私から遠ざけるように吐く、その横顔も仕草も、昔と同じだった。
何を話そうかなんて緊張したけれど、思えば卒業してから四年分の出来事なら話題に事欠かなかった。仕事で大失敗したこと、海外旅行に行ったこと。お酒も進んで楽しくなって、いつしか緊張を忘れていた。そうして時間が過ぎ、お店にいたお客さん達が次々に減っていき、

「ヤバい、終電なくなっちゃう!」

誰かがそう言ったのが聞こえた。お互いのグラスの残りが少ないのを見るなり、高杉君は割り勘にしようという私の主張を無視して、さっと勘定を済ませてしまった。

「ありがとう高杉君。ごちそうさまでした」
「出るか。電車なくなる前に」
「うん、てゆーか高杉くん、新幹線で来たんだよね。どこかに泊まるの?」
「その辺プラプラして始発で帰るよ」
「プラプラって……」

私はお店の女の子達が、チラチラと高杉くんを見ていたのを思い出した。金曜の夜なんて肉食系女子の巣窟だ。この後、彼が知らない女性とどこかに行く様子を想像したら、何としても食い止めなくちゃと思ってしまった。

「う、家に泊まりなよ!」

我ながら安直な発想だと思いながら言うと、高杉君は眉をハの字にして私を見た。

「……泊まるって、お前なァ」
「大丈夫!下心とかないし、何もしないから!」

すると彼は、可笑しそうに言って先に歩き出した。

「そーいうのは、普通は男が言うもんだろ」


それから私たちは酔いの残ったいい気分で、電車で最寄り駅まで行き、アパートまでの道を並んで歩いた。学生時代に住んでいた物件が立地がよく、私はそこに住み続けている。駅から家までの道、何度も一緒に歩いたことを思い出す。

車の通りの多い道に差し掛かった時、高杉君は、車道側を歩いていた私の肩を押して、無言で歩道側へと押しやった。手の感触にどきんとしたのと同時に、気遣ってくれたことに舞い上がってしまいそうになる。

もしかしたら、やり直したいなんて思ってくれているのだろうか。淡い期待を抱きながら、私は気になっていたことを訊ねた。

「ねえ高杉君……どうして、私に連絡くれたの?本社の同期とか大学の友達とか、東京にならたくさん知り合いがいるでしょう」

高杉君は暫く黙ってから、低い声で言った。

「気になってたからだ。何も言わねェで、終わっちまったこと」

彼の視線は、私の歩幅に合わせてゆっくりと進む、自分のつま先を見ていた。

「会社に入って一年目なんて、大した仕事任されねェくせに、何でか毎日疲れてた。急ぐ必要もねェのに早く一人前になりたくて、自分のことしか見えてなかったんだな。他のことは全部、後回しだった」

新社会人の春、右も左も分からなくて、日々を過ごすことだけで精一杯だった頃の記憶は今も新しい。離れても好きだった、でも、相手も同じ境遇だと思うからこそ、連絡するのが憚られた。私はそのまま、自分から電話の一本もできなくなってしまった。

「東京(こっち)に来る機会は何度かあったけど、踏ん切りがつかないままこんなに時間が過ぎちまった。今日会って、元気そうで安心したよ」
「うん……お互い、環境が変わったしね。私の方こそごめんね。連絡しなくなっちゃって」
「謝るなよ。お前が悪い訳じゃねェ」
「そっか。ごめん」

反射的に謝ってしまい、あ、という顔をした瞬間、高杉くんは歯を見せて面白そうに笑った。

「お前の、そういう単純でお人好しなところが好きだったよ」
「あはは、ありがと」

私も笑って言った。彼は好きだった、なんて言うけれど、私はその優しい笑顔が、今でも好きなのかもしれない。
足元を見て歩く。今は同じ方を向いて進んではいる。でも、明日はきっと違う場所で、違う方を向いているんだろう。



◇◇◇



同じ家に帰り、順番にシャワーを浴びて、買い置きの歯ブラシを渡す。恋人同士みたいだと思いながら同じベッドに入ったが、高杉くんはオヤスミと言ったきり、ベッドの隅に丸まってしまった。

シングルのベッドはふたりで眠るには狭くて、触れていなくとも、じわじわと体温が伝わってくる。私は暗い天井を眺めながら、淋しさが舞い降りてくるような気分になっていた。

彼と人生初めてのキスをした時や、彼のうちに泊まりに行って抱かれた時の記憶は鮮烈に残っている。唇や指先の感覚、私の体がどんな風に反応して、どれだけ夢中になったのかまで、全部全部思い出せる。そうしているうちに、とても眠れるような状態じゃなくなってしまった。

どのくらい経っただろう。私はとうとう堪らなくなって、声をかけた。

「高杉君……起きてる?」
「……あァ」

短い返事があった。手をほんの少し伸ばせば、触れられる距離に彼がいる。
眼の前の、大きな背中を見た瞬間、私のなかでそれまで塞き止めていたものが一気に溢れだした。

「……晋助……」

彼の肩に手をかけながら身を乗り出し、頬に唇を押し当てた。すると彼は突然のことに驚いて、私の手首を強く掴んで引き剥がそうとした。

「だめだ。俺達付き合ってねェだろ。つーか何もしねェっつたのはお前じゃねーか」
「だって、このままじゃ……」
「女ががっつくなよ。もっと、大事にしろ」

私は力ずくで彼にしがみついて、激しく首を振った。優しさなんか今はいらない。体の芯を揺さぶるようなざわめきを、一刻も早く鎮めてほしい。みっともない女だと軽蔑されてもいい、ただ彼が欲しくて欲しくて、どうしようもなかった。
大事に胸にしまっていたキスや初体験の記憶は、もう私自身を駆り立てる材料にしかならない。自分の中にこんな衝動的な感情が潜んでいたことに、私自身でも驚いていた。
声を振り絞って、懇願する。

「今だけ、昔に戻りたい。お願い。今だけでいいの」

すると、私を引き離そうとしていた手がピタリと止まり、高杉君はまじまじと私の顔を覗きこんできた。

「……お前、そんな顔して誘うようになったんだな」

彼の指が顎の先に触れる。目を閉じると同時に、ゆっくりと唇が重なった。
こうして昔に戻って、そのまま時間が止まればいいのに。そう願いながら、私は煙草の味のするキスに夢中で溺れた。



◇◇◇



翌朝、まだ薄暗いうちに、何かの物音を感じてパッと目が覚めた。
ベッドが広く感じる。確か、もつれ合うように抱き合ったまま眠ったはずなのに、隣に高杉君はいなかった。

もう帰ってしまったのだろうかと思って慌てて部屋を見渡すと、ジャケットも鞄もクローゼットのそばに置いたままだ。

「アレ……高杉君?」

私は素っ裸に綿毛布をぐるぐると巻いて起き上がった。お風呂、トイレ。どこにも彼の姿はない。不安になってクローゼットの中を覗いていると、窓が外側からガラガラと開いた。

「どこ捜してんだよ、お前」
「あ……なんだ、煙草だったの」

煙草と携帯灰皿を片手に、高杉君がベランダから現れた。独特のほろ苦い香りをまといながら、彼はジャケットを羽織ると、鞄を片手に玄関に向かった。

「えっ、もう帰っちゃうの?!」

私は壁時計に目を走らせ、慌てて彼を追いかけた。

「まだ五時半だよ」
「始発で帰るっつったろ。今日は用事があってな」
「そう……」

革靴を履く背中を見つめながら、もう少し居たっていいのに、と言いかけたが、それは私の願望でしかない。

土曜日なのに仕事があるのだろうか。
それとも向こうで、帰りを待つ誰かがいるのだろうか。
知りたい事は色々あったのに、私はトンチンカンなことを訊いていた。

「駅までの道、覚えてる?」
「当たり前だろ。何回通ったと思ってんだ」

彼はそう言って、一度だけ笑顔で振り返ったきり、出て行ってしまった。

バタンとしまった扉を暫く見つめてから、のろのろとベッドに戻りうつ伏せに倒れこんだ。忘れられないのは私だけだったのかと、胸にひゅうと冷たい風が吹くようだった。

また、追いかけてもいいのだろうか。
それともこれで、本当にサヨナラなのだろうか。

針で突かれるような胸の痛みは、初恋と同じだった。私は部屋に残った煙草の香りを胸いっぱいに吸い込み、この匂いが一生なくならなければいいのにと願いながら、声を殺して泣いた。



(おわり)


 

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