SHORT STORYA

□Let me love you!
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晋助と私が暮らす部屋のリビングには、黒い革の大きなソファーがある。同棲を始める前、一緒にインテリアを見に行って、一目ぼれして即決したお気に入りの家具だ。

ソファーに並んで映画を観たり、一週間口をきかないほどの大喧嘩をしたり、仲直りのセックスをしたこともある。それは私達の暮らしの象徴(シンボル)だ。休日は私が珈琲を淹れて、そこで一緒に飲むのが習慣になっていた。私達はずっとそうして、一緒に暮らしていくものと思っていた。

しかし、珈琲を床にぶちまけたくなるような大事件が、突然私の身に降りかかった。

「俺、留学することが決まったから」

ある日突然、晋助はさらりと言った。今日残業で遅くなるから、と同じくらいのテンションだった。

「マンション引き払うか、ここに住み続けるか、お前が決めてくれ」



   〜 Let me love you! 〜



社内人材育成の一環で、海外留学制度のある会社は多い。でもこのご時世、本人の希望が通って留学が叶う人間はごく僅かだと聞く。TOEICのスコアや論文試験の選考、上司の推薦等々、難関をパスした一握りの人間だけが行ける。晋助は、晴れてその一握りの中に入ったらしい。

晋助と付き合って四年目。まさかここにきて、遠距離恋愛の壁にぶち当たるなんて。しかも国内ではない。海の向こう側である。青天の霹靂とは、まさにこのこと。

「長谷川さん。遠距離恋愛の経験ってありますか?」

車での外回り、私は同行してもらった上司に訊いてみた。彼は中途採用の社員で、特別仕事が出来る訳でも出来ない訳でもないけれど、人が好く話しやすい、いい上司だった。

「あー、あるよ。前の職場でね、九州に異動になって、彼女残して転勤したことがあったな」
「どうでした?続きました?」
「続かないね」

と、上司は即答した。

「やっぱりね、距離は大きいよ。逢いたいときに逢えないのは、きつい。男はみんな案外淋しがりだからね。外で見栄張って生きてる分、プライベートでは安らぎを求めるんだよなあ」
「………」
「結局その彼女とは別れて、今の会社でカミさんと会ったんだよ。これね、嫁のハツ。なかなか美人だろ?」

長谷川さんは、スマホの待ち受け画面を突きつけて、頼んでもいないのに奥さんの写真を見せてきた。

「物理的な距離はどうにもならないよね。若けりゃ若いほど、遠距離恋愛は難しいと思うけどなー」
「……実は、彼氏がイギリスに留学に行くんです」
「……エッ!?」
「きっと、続きませんよね……」

私の沈んだ一言を最後に、会話はぱったりと途切れた。
長い沈黙を経て、ようやく用務先の会社に近づいた頃、長谷川さんは私以上に沈んだ声で、

「その……何と言うか、ごめん……事情を知らなくて……」

と言った。そして私の顔色を窺いながら、

「あの……松本さん」
「ハイ」
「もしかして、彼についていこうと思ってる?」
「い、いえ。そこまでは、まだ考えてませんけど……」

そうする選択肢もある。だが、今の仕事や自分の生活を手放して海外に行く勇気は、私にはない。
鞄の取っ手を握り締めて俯いていると、長谷川さんは安堵したように、胸を撫で下ろした。

「あーよかった。松本さんが会社辞めたら、俺、やっていけないよ。俺の評価がそこそこマシなの、松本さんのお陰だからさー」

冗談か本気かはさておき、彼が私を元気づけようとしているのは分かった。私はなんとか笑顔を作って、

「今は、スカイプ使えば海外でもどこでも、顔見て会話できますもんね。遠距離になっても別れないように、頑張ってみようかな」
「スカイプって何?育毛剤?」
「あはは。それはスカルプです。長谷川さん、スカイプ知らないんですか?」

不安を飛ばすように、声を出して笑ってみた。

けれど、ふとした瞬間に気持ちがずんと沈む。世界中どこにいたって電話やメールができるとしても、大好きな人が遠い場所に行ってしまうなんて。こういう時、出来た女なら、行ってこいと背中を押してやるものなのだろうか。



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