隣人と二度、恋をする

□chapter1.neighborhoodA
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マンションに着いて、銀時はポケットから鍵を出しながら、隣の501号室に目を向けた。

「隣にさ、誰か引っ越してきたみたいだけど、挨拶に来たか?」

私は一瞬固まってから、首を横に振った。

「……ううん」
「非常識な奴だな。普通は挨拶しにくるモンだよなあ」

非常識な、という部分には大いに共感した。何せ、朝っぱらから玄関でやるような隣人だ。あの出来事は銀時には打ち明けられず、気にしないように心がけていても、隣の気配に耳を傾けてしまう自分がいた。

とはいえ、エレベーターで出会った隣人、501号室の彼は、生活している気配を感じさせなかった。多くの人が出勤する朝の時間帯や、帰宅する夕方から夜に顔を合わせてもおかしくないのに、遭遇したことは一度もない。ただ、夜の十時か十一時くらい、ガチャ、と玄関の音が開く音がしたり、靴の踵が廊下を鳴らす音が聴こえたりする。
お隣さんが独り暮らしにしてもカップルで住んでいるにしても、私達との違いは明白、コミュニケーションの密度の差に他ならない。


すぐにお風呂を沸かして、私たちは順番に入った。洗面台で歯磨きをしていると、銀時がドライヤーで髪を乾かし始めた。広い背中に、こつんと頭を預けて寄りかかる。薄いパジャマを通して感じる体温は暖かくて、でも少し、遠く感じた。

「ねえ、銀時」
「んー?」
「あのさ」

があがあとした、ドライヤーのなる音に声が紛れた。天然パーマを気にする銀時は、髪の毛をしっかり乾かすことに余念がない。

「あのさ……」

髪を切っても、可愛い服を着ても、デートをしても、彼はその気になってはくれないのだろうか。
今夜、もし私が誘ったら、銀時はどんな反応をするのだろう。断られた時、どれだけ沈むかを想像したら、また一歩が踏み出せなくなってしまう。

「ねえ、明後日ジャンプの日だね。一週間早いね」
「おー」
「ヒロアカの続きが気になる」
「俺は、こないだ始まったやつが打ち切りにならないかが気になる」
「銀時がこれはイケる!って言い始めると、だいたい終わっちゃうのよね」

そうそう、と笑いながら、銀時はドライヤーをしまった。背の小さい私のために、屈んでおでこにそっとキスをして、優しく微笑む。

「酔っ払ったから先に寝るよ。おやすみ」
「おやすみ……」

誘おうかどうしようか、私が結論を出す前に、彼はその葛藤を断ち切った。



***



電車の中で仲良く手を繋いで、お喋りしながら帰宅して、順番にお風呂に入って、それでも私たちはベッドで裸にならない。

男の人は多分、その気になったらすぐにしたいものだけれど、女は違う。気分を高めるのにじっくり時間とエネルギーをかけて、コップに一滴一滴水を落とすようにして気分が盛り上がっていく。だから同様に、鎮めるのにも力を使う。昂った気分のままじゃあ、眠ることさえ出来ない。


私は電気を消して、薄暗いリビングのソファーに横たわった。じっと息を潜めて、寝室の気配を窺う。銀時が寝ていても、まだ起きていてもどちらでもいい。こちらへ来る様子がないことを確認してから、私はパジャマの上から、そっと胸に手をやった。

もう、硬くなっている。
親指の腹で撫でつけるように刺激を与えて、反対側の胸にも同じようにしてやると、むずむずとした感覚がお腹の方へ落ちてゆく。

腰を浮かせ、集まって来た熱を逃がさないように、膝をぎゅっと寄せて閉じ込める。そうすると、下着の奥が徐々に温まり潤っていくのが分かる。腿の内側を擦り合わせる、それだけでも気持ちがいい。

「……ん」

思わず、鼻から息が抜けた。このむず痒い感覚を引き延ばすだけ引き延ばして自分自身を焦らすと、より強い快感を得ることが出来る。

このところ、こうして自慰に耽るのはもう何度目かになる。性的な感覚から長らく目を背けて過ごしていたけれど、忘れていたものが一度呼び覚まされると、もう看過できなくなる。こうして慰めでもしないと、仕事中だろうと下半身が疼いてきて、日常に支障をきたすほどだった。土曜の夜、恋人と抱き合うのではなく一人でするのを、空しいと思ったのは大分昔のことだった。

膝を立て、足の間に手をやるのと同時に、私はかたく目を瞑った。今、一番恥ずかしいところを暴こうとしているのは、私の手じゃない。
頭の中で、エレベーターで出くわした、隣人の細い指を思い描く。男の人にしては華奢で、すらりとした指が、最も敏感なところを、撫でていく。

円を描くように、何度も何度も、優しく。

いつだったか隣の玄関から漏れ聴こえた、荒っぽい吐息を思い出す。彼は女の人に、どんな風にしてあげたんだろう、そんな想像をしていると、彼が放った短い声が耳の奥に蘇った。その艶っぽさに、ぞくりと肌が総毛だつ。

「……っふう、」

堪らずに漏れた溜め息を、私は唾液と一緒に喉の奥へと流し込んだ。
私が隣人を想像してこんなことをしているなんて、銀時には絶対知られたくない。罪悪感にも似た気持ちに気付かない振りをしながら、私は空想に浸ったまま、独りの夜更けを過ごした。



(Bに続く)
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