隣人と二度、恋をする

□chapter4.Classic, Secret, LoveA
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筒井筒の話には続きがある。結婚後、女の両親が死んで暮らしが立ち行かなくなり、男は他に通う女が出来てしまう。けれど女は咎めることなく、男が不在の間も美しく化粧をして、安否を憂う歌を詠んでいるので、その健気さに男は心を打たれ、元の女のところに戻ってくるという話だった。

だが現実には、そう綺麗に話は進まないだろう。一度浮気をして味をしめた男は、これに懲りずにまた女に手を出すだろうし、女が男の移り気を許してやれるのもほんの一時だ。男女というのは、ただ一緒にいて平坦に続いて行くものではない。続けよう、一緒にいようと努力しないと、うまくいかないものだと俺は思う。

十代の生徒達には、恋愛はキラキラとした綺麗なものに映っている。恋の背景に辛労や苦悩があることを、彼らはまだ知らない。俺自身、楓との関係を続けようと、全力で努力をしているかと訊かれればそうではなく、都合の悪いことには目を背けてばかりだ。そんな恋愛には百点満点をつけれないから、俺は古典を教えることはできても、生徒の前で恋愛を語る資格は無いだろう。


授業を終えて職員室に戻ると、隣の席の同僚がこそっと話しかけてきた。

「坂田先生、今晩有志で、早めの暑気払いに行こうって話になってるんですけど、どうですか?」
「ああ、俺は……」

特別忙しい訳ではないけれど、飲みに行く気分ではなかった。週はじめの月曜、楓はだいたい残業しないで早く帰宅する。彼女が家にいるなら、俺も帰りたいと思った。

「今晩、用事があるんです。すいませんけど、また今度に」

彼女と過ごす時間は平穏で、俺達は殆ど喧嘩もしない、仲のいいカップルだ。一緒に食事をして、順番に風呂に入って、テレビを見たり喋ったりした後にベッドで眠る。でも、そこにセックスはない。
俺達の現状に、今のところ楓は何も言わなかった。彼女は筒井筒の女のように、髪が伸びたと言って積極的な返歌をしてくるタイプではない。何か訊ねても、一歩退いて遠慮してしまうところがある。そういう謙虚さに甘えてしまっているのだが、俺に原因がある以上、申し訳ないという気持ちはあった。セックスで満たせない分、他では優しく接して満たしてあげたいと、そんな風に考えてバランスを保っていた。


原付を走らせてマンションに到着し、五階を見上げると、502号室の明かりはまだついていなかった。今晩は楓の為に、料理の腕を奮ってやろう。そう思いながら、エレベーターから降りた時だった。隣の部屋の501号室の扉が開いて、細身の男が姿を現した。

空室だった角部屋に、誰かが越してきたのは知っていた。けれど一向に挨拶に来る気配はなく、常識知らずな隣人だと思っていた。その男は、もう夜だというのにサングラスをかけて、俯きがちに歩いてくる。同じマンションの住人とすれ違ったら、普通は挨拶をするものだ。礼儀を知らない隣人は、果たして俺の横を素通りしていくだろうか。向こうの出方を見てやろうと思いながら、歩幅を狭めた時だった。

隣人はおもむろに顔を上げ、サングラス越しの目で俺を見たかと思うと、カッと踵を鳴らして立ち止まった。一瞬、俺が何かしてしまったのかと思い、俺も歩みを止めその場に固まった。
自然と、お互いをじっと観察し合うような形になる。隣人の、男にしては艶やかな黒い髪の毛を見つめた。サングラスで顔は隠れているけれど、細い鼻筋や頬から顎へのシャープなラインは、どこかで見た覚えがある。
男がおもむろにサングラスを外し、その陰から、鋭い切れ長の瞳が現れた時。俺の記憶の針がぐるんと動いて、十年前に遡った。

「お前……銀時か?」

驚きと戸惑いの混じる声で、男は言った。その、独特の籠るような低い発音を聴いて、俺は確信した。
俺の予想の通り、隣人は常識知らずで無礼なやつ。その上、口が悪くて女癖も悪くて、いい所なんて捜してもきっと見つからないと断言できるような男だった。

「……高杉!」

高杉晋助。俺の幼馴染と言えば、残念ながら筒井筒のように隣に住む女の子じゃなくて、こいつが思い浮かぶ。同じ養護施設で育ち、喧嘩も沢山したけれどいつも一緒にいた。そう、十年前までは。
高校生にあがった頃だったか、奴は身長が低い以外は容姿に恵まれ、中性的な香りのする端整な顔立ちのせいか、女達がほっといておかなかった。次々に女を変え、しまいにはだいぶ年上の女と暮らすようになり、学校からも施設からも姿を消していた。

そんな奴が、突然ぽっと目の前に現れたのだ。ゆうに十年振りに見るというのに、夜闇のような黒髪も、目つきの悪さも、背の低さも何も変わっていないことが妙に可笑しかった。
そう思っていると、高杉は不快さをあらわにして俺を睨みつけた。

「オイ、銀時てめェ、俺の顔見て何ニヤニヤしてやがる」
「いや、すげえ驚いた。十年経っても人間、変わらねーモンだな」
「あァ、そうだな。お前のそのクルクルパーの頭は、どこにいたって見間違わねェよ」

癪に障る言い方にむかっとしながら、そういう人の神経を逆撫でするところも変わらないなと思う。

「つーか、お前が隣に住んでたのかよ。全っ然知らなかった。普通引っ越してきたんなら、挨拶に来るもんだろ」

と俺が言うと、高杉は眉をひそめて俺を凝視した。そしてたっぷりの間をおいて、

「……隣?」

と訝しげに訊ねた。その時だった。チン、とエレベーターの開く音がして、中から楓が姿を見せた。俺と僅差で帰宅した彼女は、驚いた表情で俺を見つめ、

「あれ、銀時、帰ってたの……」

背後にいる高杉に気付いたらしく、そこで歩みを止めた。俺は奴を、楓に紹介した。

「おかえり楓。こいつ、高校の時の同級生。つーか中学も一緒だったっけ……いや、小学校からか。高杉っての。今、偶然ここで会ってさ、こいつが隣の部屋に住んでるんだって」

楓が能面のような表情をして固まっているので、俺は不思議に思って、彼女の顔を覗き込んだ。

「どうした?楓」
「ちょっと……びっくりしちゃって」

彼女は曖昧な笑顔を浮かべて、髪をかきあげた。

「お隣に同級生が住んでるなんて、すごい偶然だね」

楓は人見知りをするタイプで、今でこそバアさんと仲良く喋っているが、最初の頃はまともな会話が続かなかった位だ。
ぎこちなく頭を下げ、初めましてと小声で言う彼女に、高杉は軽く会釈をしてから俺の方を向いた。

「てめェが隣に住んでたとはな。俺ァもう行くぞ」

ぶっきらぼうに言ってから、彼は5階に止まったままのエレベーターに乗り込み、どこかへ行ってしまった。俺はそれを見届け、帰ろうと彼女を促し、我が家のドアを開けた。

「腹減ったよな。今晩は俺が飯作る。何がいい?」
「ええと、簡単なものでいいよ。私、お腹空いちゃった」
「そうか。じゃ、パスタにでもするか……」

楓と話しながらも、突然の幼馴染との再会に、胸がざわざわと五月蠅かった。それは嬉しさなんかではなく、何か悪いことが起こりそうな予兆のように思えた。何故ならあいつは、楓に会う前の俺を知っている。ひょっとしたら、彼女以上に俺のことを分かっているかもしれない。平穏な暮らしに、小さな音をたてて罅(ひび)が入ったような気がした。



(chapter4 おわり)
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