隣人と二度、恋をする

□chapter7.Not us, but you&meA
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忙しいだろうに、お登勢さんはわざわざ外まで見送りに出てくれた。二階のスナックから狭い階段を降りたところで、今日は一度も、お登勢さんが煙草を吸うところを見ていないのを思い出した。以前は少しでも手が空いたら、スパスパと煙を吐いて、灰皿が吸い殻でいっぱいになっていたのに。

「そういえばお登勢さん、禁煙したんですか?」
「ああ。禁煙しろって怒られたからね」

誰が怒ったのか、お登勢さんは言わなかったけれど、銀時が言ったのは間違いなかった。


お登勢さんが微笑んで手を振ってくれたので、私も手を振り返してスナックを後にした。幾分か夜も更けると、あちこちの看板に派手なネオンが灯り、飲食店の換気扇から色んなものの匂いの混じった生暖かい風が吹き出していた。歌舞伎町一番街の赤いアーチの下あたりでは、もうお酒の入った人と、これから飲みに繰り出すしらふの人が半々ほどの割合で歩いていて、夜の始まりを思わせる独特のざわめきを作り出していた。
歌舞伎町にはこれまで何度も来ているけれど、一人で来ると町の顔は違って見える。ここに本当にまた来ることがあるのか、もしかしたら、もう来ないかもしれないと思うと、胸が締め付けられるように切なかった。

見送ってくれたお登勢さんの笑顔を思い浮かべながら、駅の方面へ歩いていた時だった。突然、ポンポン、と肩を叩かれた。立ち止まって振り向くと、髪を茶色に染めて耳に幾つもピアスを開けて……一言でいうなら、チャラい雰囲気の若い男性が立っていた。
知らない人だったので、何事かと警戒していると、彼はわざとらしく、高い声のトーンで言った。

「やっと気づいてくれたぁ。さっきからお姉さんに声かけてたんだけど、聞こえなかった?」
「はっ?」
「これからどこ行くの?」
「えと、新宿駅ですけど」
「こんな時間に帰っちゃうの?早くない?!」
「………」

あまりの馴れ馴れしさで話しかけられたので、ナンパだと気付くのに時間がかかった。きつい香水を匂わせながら、茶髪の男は距離を縮めるように肩を寄せてきた。

「一緒に遊ぼうよ。カラオケとか好き?これから行っちゃう?」
「いえ……その、あの」
「もしかして照れてるの?緊張しちゃった?お姉さん可愛いねー!ちっちゃくて、俺のタイプ!」

そう言いながら男の手が反対側の肩に回って、ぐっと抱き寄せられた。半袖から出た剥き出しの肌に、直に見知らぬ人の体温を感じるのは、不快を通り越してもはや恐怖だった。声をかけられるだけならまだしも、触れられるともう、この場から逃げられないと錯覚してしまう。

今までナンパをされた経験なんてなかったので、どう対処していいのか、どうやって周りに助けを求めたらいいのか、全く見当がつかなかった。これまで繁華街に来るときは、いつも銀時と一緒だったから。
ただ彼の手に引かれるまま、全部を彼に任せて、安心して彼の隣を歩いていたから。

「いや……助けて銀時……」
「ギントキ?あのね、俺の名前はギントキじゃなくてさ、」

茶髪男がそこまで言いかけた時だった。誰かが私の腕を掴み、強い力でぐんと後ろへ引っ張られた。その拍子に茶髪男とは引き離され、バランスを崩して転びそうになったところを、また誰かの手で背中をそっと支えられた。

誰だかは分からないけれど、助けてほしいと思った時に駆けつける、ヒーローのような登場の仕方だ。本当に銀時が助けに来てくれたのかと思い、期待を込めて背後を見ると、長い黒髪が印象的な、端整な顔立ちの女の人が立っていた。


私を救ってくれたその人は、牽制するような厳しい視線を、茶髪男に向けて言った。

「女性に馴れ馴れしく触るのはやめろ。嫌がっているだろう」
「っ!?」

私は驚きのあまり言葉を失った。その人は天鵞絨(ビロード)の生地のように艶のある髪を、背中の真ん中で一本に結んでいたので、てっきり女性だと思っていたけれど、それは私の勘違いだった。発した声は低く凛としていて、間違いなく男の人のものだった。よく見れば、きりりとした眉や整った目鼻立ちは男らしさを感じさせて、まさに美形という言葉がぴったりの面立ちをしていた。

一方で茶髪男の方も、突然現れたその人物に困惑していた。いや、困惑というより、彼は既に不穏なオーラを漂わせながら、喧嘩腰で突っかかっていくところだった。

「何だよアンタ。この暑い時期にむさ苦しい髪しちゃって。オカマかよ」
「オカマじゃない。桂だ」

私は再び驚いた。声が出そうになって、口許を手で押さえてなんとか我慢する。

(えっ!?このきれいな長髪がカツラなの!?)

そう思っていると、茶髪男はカツラ発言が面白かったらしく、ギャハハと大ウケして一人で笑っていた。そしてひとしきり笑ったところで、急に取り繕ったような真顔になり、カツラの男性に詰め寄った。

「地毛でもカツラでもどっちでもいいけどぉ、俺達せっかく楽しく話してたってのに、邪魔してくるとかどういうつもり?」

“俺達”というのが、茶髪男と私のことを指していると察した途端、厭わしさのあまり身震いがした。知り合いでも何でもないナンパ男に、“俺達”と一括りにされる筋合いはない。俺達と呼んでいいのは、銀時のように……あるいは高杉さんのように、自分の心や体の一部が、その人のものになってもいいと思える、そんな風に感じられる人じゃないとだめなのだ。


私が眉を顰め、本気で迷惑そうな顔をしていたのに気付いたのだろう。長髪のカツラの男性は、私を後ろ手に庇うようにして後ろに下がらせると、叱責するような鋭い口調で言った。

「目的は何であれ、夜道で若い女性に声をかけ、ましてやみだりに体に触れるなど、良識ある男のするべきことではないぞ。恥を知れ」
「ハアア!?説教かよ!マジムカついた」

茶髪男の目の色が変わった。彼は拳をぐるぐると回しながら、カツラの男性へと大股で近付いていった。
喧嘩になると思った瞬間、私は怖くなってぎゅっと目を瞑った。見知らぬ私を助けてくれたばっかりに、カツラの男性をこんなことに巻き込んでしまった。どうしようと思いながら、恐々薄目を開けてみると、

「……えっ?」

茶髪の男はカツラの男性に殴りかかるどころか、逆に柔道の絞め技のようなものをかけられて、地面に組み伏せられていた。痛いのか苦しいのか、彼は顔を真っ赤にして苦悶の表情を浮かべており、情けない声で懇願していた。

「ごっ、ごめんなさいい、離してくださいいい!」

男性は肘の関節を使って茶髪男の首をぎりぎりと締めあげながら、私の方に顔を向けさせて言った。

「お前が謝るのは、俺じゃない。不愉快な思いをさせてしまった人に頭を下げるんだ」
「す、すんませんっしたあ!もうしません、もう……!」
「ついでに、俺が桂と名乗っただけで笑ったことも謝れ」
「ヅラを笑ってごめんなさいいいい」
「ヅラじゃない桂だ!」

ここは、歌舞伎町の中心である。喧嘩で取っ組み合いをしていれば嫌でも目立ち、周りにはいつの間にか、野次馬の人だかりができていた。大事になったら大変だと、私はどぎまぎしながら彼らの様子を見つめていたけれど、カツラの男性はようやく茶髪男を解放した。
彼は相当苦しい思いをしたらしく、激しく咳き込みながら、一目散に逃げて行った。彼の情けない後ろ姿が徐々に遠ざかっていくと、周囲で成り行きを見ていた人々も各々の行き先へ流れていき、歌舞伎町に元の喧騒が戻ってきた。


カツラの男性は茶髪男が退散したのを見届けると、腰を屈めて、服の砂埃を払いながら私に尋ねた。

「大丈夫だったか。怪我はないか?」
「は、はい、大丈夫です。ありがとうございます、助けていただいて」
「そうか、よかった。ところで」

彼と私は、お互いの真正面から向き合った。彼はとても姿勢がよく、ピンと真っ直ぐに背筋が伸びていて、細身ですらりとしている体型なのにやたら存在感が強かった。

「君がさっき、“銀時”と言ったのが聴こえたのだが」
「はい?」
「それは、坂田銀時のことで、間違いはないか?」

私は目を丸くして彼を見上げた。この人が登場して、ものの五分も経過していないのに、私はずっと驚かされてばかりいる。



(Bへ続く)
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