隣人と二度、恋をする

□chapter11.Birth,End & Reunion@
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妙ちゃんは赤ちゃんをそっとベビーベッドに寝かせてから、ベッドサイドの私の隣に腰を下ろした。

「そうだ。広報誌、送ってくれてありがとう」

区の広報誌の記事を書いた時、区民祭りに来ていた妙ちゃんの家族写真を使わせてもらったので、お礼とともに一部郵送したのだ。

「写真が載るなんてちょっと照れ臭いけれど、娘たちはすごく楽しかったみたいよ。来年も遊びに行きたいわ」
「本当?嬉しい」
「今度は、この子も連れていくわね」

と、赤ちゃんを見て言ってから、妙ちゃんは声のトーンをひとつ下げて私に尋ねた。

「あなたはどうなの、最近。うまくいってる?」

何のことか明確に言わなくとも、恋愛を話題にする時には、女の子には独特のサインがある。妙ちゃんが秘密を探るような上目をしていたので、私はええと、と言葉を濁して俯いた。

頭に真っ先に浮かんだのは、高杉さんの姿だった。ここに面会に来る前、退庁する時にも、喫煙所にその面影を捜した。居ないことに落胆こそしないけれど、日々、会いたいという気持ちは募ってゆく。

「……毎日、考えちゃうんだよね」

私は正直に言った。

「一回、職場に来てくれたことがあるの。だから、もしかしたら今日も来てるんじゃないかなって期待しちゃうんだ。会いに来てくれたら、いいなって……」
「会いたいなら、あなたから会いに行ってもいいんじゃないかしら」

と、妙ちゃんが言った。高杉さんは、以前私が暮らしていたマンションの隣室、501号に暮らしている。自分から会いに行くという選択が今まで浮かんでこなかったは、男の人に対して受け身でいる姿勢の表れかもしれない。

「自分から行動してみるのも、いいと思うわよ。実は、出産したことは、坂田くんにはまだ知らせていないのよ」

妙ちゃんが突然銀時の名前を出したので、えっ、と声が出てしまいそうになった。彼女は穏やかに微笑んで続けた。

「何かしら報告があった方が、連絡を取りやすいものでしょう。今度、坂田くんにメールでもしてみたら?」
「そう……だね。ありがとう」

私が高杉さんのことを考えているとはつゆ知らず、妙ちゃんは私と銀時のことを訊いていたのだと思うと、何だか自分だけが遠いところにいるような疎外感を感じた。


それから、妙ちゃんに健康を大事にするよう念を押してから病院を後にした。
帰りのバスの中で、もし高杉さんのマンションを訪ねたら一体どうなるんだろうと想像してみる。会ったらおそらく、彼に流されて体の関係を持つことは確実だ。私自身が“したい”と思ってしまうあたり、彼が職場に来て思わせ振りな事を言ったのは、私から逢いに行くのを仕向けるための狡猾な罠なんじゃないかと思えてくる。

一方で、銀時のことを考える。引っ越してからずっと連絡をしていなかったし、銀時からの連絡もなかった。高杉さんと関係を持って、彼との暮らしを駄目にしてしまったのは私だし、自分から連絡をするのは抵抗がある。
とは言え、私がマンションを出ていった時に見せた哀しい笑顔を思い出せば、連絡をしないことに後ろめたさが出てきた。高杉さんの連絡先は知らないけれど、銀時のラインは今でも一番上に表示されている。マンションに行くか、連絡を取ってみるか、とりあえず、すぐ出来る方を選んでみた。


“久しぶり”

ラインのメッセージの一行目に、そう打ってみる。送信はしない。改行して、続きを考える。

“妙ちゃんが、三人目の子どもを無事出産しました。面会に行ってきたけど、妙ちゃんも赤ちゃんも元気です。赤ちゃんを抱っこさせてもらったら、小さくてとても可愛かった。”

そんなメッセージを入力してみたけれど、セックスレスでうまくいかなかった私達の間で、子どもの話題を出すのは何だかタブーのように憚られた。結局、途中まで書いたメッセージを全部消して、送信もしないまま携帯を鞄にしまった。

(……一体何をやっているんだろう、私は)

バスの窓に頭を預けて、小さく溜め息をつく。連絡をするかしないか、会いに行くか行かないか、そんなことで悩んでいるうちに、妙ちゃんは生き生きとして、三人の子どもの育児に励むのだろう。
比べても惨めな気持ちになるだけなのは分かっているが、時間は誰にだって等しく与えられ、確実に流れていく。子どもを産むなら、結婚を考えなければいけない年齢が近付いているという自覚もある。でも、自分の身の上にそんな出来事が起こりうるという実感は、ちっとも沸かない。私はきっとまだ、そこまで大人になりきれていないのだ。

それでも、今日赤ちゃんを抱っこさせてもらって初めて、子どもは無条件にかわいいものなのだと心から思えた。この手に抱いた、無垢で小さい赤ちゃんは、世界の全てから祝福されて、歓迎されて産まれてくる。誰にだって、赤ちゃんだった時代があるのが不思議に思う。私もかつて、母の胸に抱かれていた。母は祖母に、祖母は曾祖母に。母親の愛情は、そうやって受け継がれてゆくものだ。

母も、祖母も、曾祖母も。母親になって子どもを育てる、愛する人の子どもをこの手に抱くという経験をしている。私にも、いつかできるだろうか。そんな想像をする帰り道は、大勢の中で味わう孤独と同じで、世界の隅に置き去りにされたように空虚に思えた。


自宅近くのバス停に着いて、重い足取りでバスを降りた時だった。まるでタイミングを計ったように、携帯の電話が鳴った。
母からだった。確信はないが、ざわざわと嫌な予感に胸が黒く染まる。携帯を持つ手が、細かく震え始めた。



(Aに続く)
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