隣人と二度、恋をする

□chapter16.Just stay with me
2ページ/2ページ


構内のアスファルトは照りつける太陽に熱せられ、フライパンの表面のように温まって、ゆらゆらと景色が歪んで見える。銀杏の大木のつくる日陰が、強烈な熱気から私達を守ってくれていた。青い葉がチラチラと日光を反射して、銀時の頬を所々明るく照らしていた。

「高杉の話を読んで気付いたことがあるんだ。いや、気付かされたって言った方がいいのかな。セックスレスがつらいとか淋しいっていう気持ちがどんなものなのか、お前がどんなに苦しんでるかが分かったよ」

彼は膝の間で両手を組み、地面の一点を見つめて静かに話をしていた。がらんとした大学で交わす言葉は、ギラギラした真夏の光線に蒸発されて空中の熱気に溶けていくようだ。

「そこまでしないと分からないなんて、馬鹿だと罵られるかもしれない。でも俺達、何でもないことはよく喋るのに、大事なことをお互いに避けてたんだよ。平和な関係が壊れるのが怖くて、ずっと知らんぷりしてた。壊れてもいいから、向き合わなくちゃいけないことだってあるのに」

セックスをしない期間が更新されていくうちに、私達の間でセックスの話題はいつしかタブーになっていた。一緒にいるためには必要なことで、避けては通れないものなのに。裸になってお互いを求めあう行為は、本性や本能が如実に現れるものだ。本音を曝け出すのが怖くて、ずっと逃げていたのだ。

「俺はガキの頃のトラウマみたいなものがあるから、抵抗感が全然ないと言ったら嘘になる。でも、それは相手を傷付けたり汚したりするものじゃなくて、大切な相手と分かり合うためのものだと、相手をもっと知りたいと思う気持ちの延長にあるものだと、そう思うようにしてるんだ」
「分かり合うための……」

銀時の言葉を反芻しながら、私にとってセックスとは一体何だろうと考えてみる。生殖行為。性欲を満たすもの。肉体的に繋がるもの。そんなに単純じゃない、もっと深いところで、精神的なものを求めている。体温や感触を直接感じて、感じてもらって、愛されている、愛し合っていると証明するもの。
きっと大切な相手に対して、自分の存在を確かめてもらうもの。

「俺は俺なりのやり方でしかできねえけど、ちゃんとお前のことを見て、確かめたいと思うんだ」

銀時は私の思考を読むような事を言った。私はどきっとして彼を見つめた。
私達の何かが変わろうとしている。卒業以来に母校を訪れるという非日常な出来事に、変化を予感させるシグナルがあった。暑さのせいだけではない、首筋にじっとりした汗が滲んで、胸の間をつうと流れていく。
彼は声を低めて言った。

「今日、お前んちに行っていい?」

ぐ、と胃のあたりに重しを乗せられたように息が詰まった。身体が岩のように強張る一方で、思考はものすごい速さで高速回転していた。
部屋が散らかっているからダメだ。明日は月曜で仕事があるからダメだ。実は風邪気味で体調が優れないからダメだ。頭の中に断るための言い訳が幾つも思い浮かんでは消えていく。いいよ、と即答できない自分がいるのだ。この関係が進展するのを望んでいながらも、他方で逃げ腰の自分がいる。

「ダメ?」

私が何か言うより先に、彼がじっと私を見つめて訊ねた。真っ直ぐな緋色の瞳は、何かを決心したような有無を言わせない意思の強さが滲んでいて、私は小さく頷いてOKした。



***



電車を乗り継いで官舎の近くまで来た時、銀時はコンビニの前で立ち止まった。

「ちょっと寄ってく。お前は、ここで待ってて」
「うん」

信号の近くのガードレールの側に立ったまま、銀時がコンビニの自動ドアをくぐるのを見送った。私を残して行ったので、彼が何を買いに行ったのか想像がついた。薄いゴム製品が入った、小さな箱。

ああ、とうとうこの時が来てしまったと思うと、肩に食い込む圧迫感で体がずっしりと重くなった。普通の恋人同士がすることだから、緊張することなんてないと言い聞かせても、セックスレスに悩み疲れた経験は私の体に色濃く染みついていた。

銀時の誘いに、素直に頷けなかった理由はそこにある。セックスがうまくいかなかった時の、女として価値がないと言われたようなショックと、愛してほしいのに愛してもらえない喪失感は、そう簡単に忘れられるものではない。

ストンと暗闇に落とされたように、道路を横切る車の音が止み、思考が灰色に染まる。どうせまた傷つくなら、無理して前に進まなくてもいいんじゃないだろうか。別にセックスしなくたって、銀時と過ごす時間は楽しくて幸せだ。一緒にいて家族愛を分かち合えれば十分で、いつまでも“女”でいたいなんて、高望みし過ぎではないだろうか。


後ろ向きな思考に支配されていると、コンビニから帰ってきた銀時が首を傾げて、怪訝そうに覗き込んだ。

「おい。大丈夫か。すげえ顔してるぞ」
「あ……」
「何かあったのか?」

心配そうに訊ねる銀時に、私は小さく首を横に振った。

「銀時。私やっぱり、今日は……」
「嫌なの?」
「ううん。嫌な訳じゃないけど……」
「気が進まない?」
「…………」

頷こうかどうか迷った。視線を足許に彷徨わせて、言葉を選びながら言った。

「嫌じゃないけど、怖いの。私達……前はちゃんと出来なかったから。またダメかもしれないと思うと今から緊張しちゃって、今日は、もう……」
「何だよ。そんなん、俺だって一緒だよ」

私が言うのを遮って、銀時は腕を伸ばして強引に私を抱き寄せた。足許がふらつき、よろめいた体ごと彼にがっしりと抱き止められる。

「わっ、ちょっと、銀時……」

車も人も次々行き交う往来で抱き合うのはかなり抵抗があった。焦って離れようとすると、彼は有無を言わせない強い力で私の頭を抱え、分厚い胸板に押し当てた。

「あっ……」

耳に直接響いてきた。彼の心臓が大きく脈打ち、ド、ド、ドと早いテンポで鼓動を刻むのが。驚いて彼を見上げると、こめかみがうっすら汗ばんているのが分かった。視線がかち合う。彼は怒ったような、悲しそうな目で私を見た。

「緊張してるよ。俺だって」

彼はそう言ってから、私を解放した。

「出来なかったら、またお前を傷付けることになっちまう。そうなったら、もうダメかもしんねぇと思うと、怖いよ。すげえ怖いよ」

道路脇を車が立て続けに通り過ぎていく。ゴウゴウという音に声を邪魔されないよう、銀時は車の行き来が終わるのを待っていた。俯きがちな横顔が所在なくて、迷いや焦りが目許に揺らいでいた。

「俺だって、いろいろ考えたんだ……。でも、お前のことをちゃんと知りたい。今は、失敗したらどうしようって気持ちより、そっちの方が大きい。お前はどう思う?」

私達の関係は、友達と恋人のあいだの中途半端な所でふらふらとしている。恋愛をする上ではセックスとは切り離せなくて、このまま恋人同士でいるなら、いつかはするんだろうと漠然と考えていた。目の前に来た“いつか”のタイミングが、たとえば三日後でも一年後でも、怖じ気付いてしまうのは変わらない。失敗を恐れていたら何も変わらないのだ。やり直しはいくらでもきくということを、忘れてはいけない。

私は自分から銀時の手を握った。

「もし、今日出来なくても、ダメになんかならないよ」

行こうか、と私は官舎の方向へ歩き出した。彼は両手で頭を抱えて、やけに芝居がかった口調で言った。

「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ……」
「やだ。やめてよ、銀時」

唐突に有名アニメの主人公の真似を始めたので、私は可笑しくて笑いながら、彼の肩を叩いた。
少年の声真似をしようと裏声を使うところとか、緊張を紛らわそうと冗談を言った後の、少し照れ臭そうな笑顔とか、端々に彼の暖かさを感じた。逃げたいと何処かで願う、私達はお互いのそんな弱さを知っている。でも、こうして一緒に前に進もうとしているのは、私達の大きな一歩だ。




(Aに続く)
次の章へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ