鬼と華

□螢夜 第三幕(前編)
1ページ/3ページ


「まあ、綺麗な簪(かんざし)」

朝、屋敷にやって来た鈴が、薫の纏め髪を見るなり、弾むような声でそう言った。薫は細かい蒔絵の施された、黒い鼈甲の簪で髪を留めていた。

「旦那さまからの贈り物ですか?」

鈴に尋ねられ、薫は恥ずかしそうに頷いた。

鈴が屋敷に奉公に来るようになってから、ひと月ほどが経っていた。家のなかで家事をする間、薫と鈴はよく他愛ない話をするようになった。

「ねえ、薫さん」

床掃除に手を動かしながら、鈴が言う。

「旦那さまとは、祝言は挙げたのですか?」

祝言とは、婚礼のことである。薫は、カッと頬が熱くなるのを感じた。

「いいえ!!私達は、そんな……」

薫は焦って否定した。しかし、鈴に、自分達のことをどう説明するべきか。夫婦というにはあまりに若すぎて、恋仲というには深すぎる関係だと思った。
彼女が口ごもって思案していると、鈴が夢を見るような表情で言った。

「薫さんの晴れ姿は、きっと綺麗ですよ。きっと、花扇の刺繍の、赤い打ち掛けが似合いますわ」

そう言われ、薫は肩をすくめて微笑んだ。

「お鈴さんにも、いつか現れますよ。生涯を捧げても惜しくない、大切な方が」
「そんな!私には、まだ……」

年相応に、照れくさそうにはにかむ鈴を見て、薫は彼女に初めて親近感を覚えた。


空いた時間を使って、薫は鈴に、裁縫や生け花などの女の教養を教えるようになった。そして鈴は、京野菜の料理を薫に教え、京の街のことなどを事細かに話した。
古くより続く賀茂祭、壮大な祇園御霊会。花樹の見事な庭園や、夏に螢の翔ぶ川原。


「私の住まいから此方にうかがう途中に綺麗な川があって、毎年螢が見られるんですよ」

と、鈴は言った。

「ご存知ですか。螢は川の中で育って、雨の降った夜に川から這い出てくるんです。そうして土の中で繭をつくって蛹になり、成虫になる日を待ち続けるんです」
「まあ」

薫は、鈴の博識に感心して微笑んだ。

「雨が降れば、螢の見れる前触れなのね」

鈴がその名の通り、鈴の鳴るような声で語る京の情景は、薫にとって鮮やかな絵巻のように脳裡に描かれた。
家事を終えた夕刻、薫の部屋や庭に面した縁側で、ふたりは飽きることなく語らった。それはお互いにとって、一日のうち最も愉しい時間であった。



◇◇◇



鈴という娘、気立てがよく頭もいい。だが、彼女を取り巻く環境は決して恵まれてはいなかった。
彼女の話によると、父親が不運にも辻斬りにあって亡くなってからというもの、母娘ふたりの生活は相当厳しかったらしい。辻斬りにあったことで、あらぬ噂が立ち上ぼり、親類縁者はみな遠ざかり頼ることができなくなってしまった。鈴の母は無理がたたって、病に倒れたのである。

京が梅雨入りしてから、鈴の母の容態が芳しくなく、鈴は半日暇を貰うことが増えていた。
その日も、鈴は申し訳なさそうに、薫に頼み込んだ。

「薫さん、すみませんが、母を連れて大村先生のところに行きますので、午後からお暇を頂戴してもよろしいでしょうか」
「構いませんが……大村先生とは?」

薫が尋ねると、鈴は意外そうに目を丸くした。

「ご存じありませんか?大村損次郎先生です。ご出身は長州の周防国で、元は教鞭をとられていたそうですが……今は医者として、各地を回られているようです。どんな病でも治す名医と、大評判なんですよ」

薫は、暫し言葉を失った。何という偶然であろう。大村は、彼女が長州にいた頃、明倫館にて教えをうけた師であった。

大村損次郎という男は、もともとは長州藩の周防国の村医でありながら、蘭学や兵学を修め、江戸の私塾で教授として迎えられるほどの優れた人材である。
後に長州へ戻り学校教授役となり、藩校明倫館で西洋兵学の講義を行っていた。晋助と薫は在学中、ちょうど彼に学んでいたのだ。


「晋助様!」

かつての師が、偶然にも京にいる。薫はすぐに晋助に知らせたくて、屋敷に彼の姿を捜した。

「晋助様、大村先生が……!」

屋敷の庭の裏手で、彼女は晋助を見つけた。だが、声をかけるのを止まった。

晋助は、一心不乱に竹刀を振るっていた。薫の呼び声にすら、全く気付いていない様子であった。

薫は、息を飲んで晋助を見つめる。稽古に没頭する様子は、剣術を学んでいた少年の頃を彷彿とさせる。曇天の薄暗い空の下、彼の姿だけ、まるで熱く燃えているように見えた。

竹刀稽古の邪魔をしてはいけないと、薫はそっと、屋敷の中へと戻った。


.
次へ
前の章へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ