鬼と華

□鬼百合の唄 第二幕
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翌朝早い時間から、どこからともなく楽器の音色が聴こえてきた。

薫はその音でふと目覚め、隣で眠る晋助を見た。彼は身動ぎもせず、まだ深い眠りの中にいる。きっと酒を飲んで眠ったのだろう、目覚める気配がない。
誰が奏でているのかが気になって、薫は浴衣の上に一枚羽織り、そろりと部屋を抜け出した。


早朝の赤鬼寺では、僧侶達が朝の作務に勤しんでいる。熊手で砂の模様を整える音、廊下を水拭きして走る小気味良い音などが方々から聴こえてくる。薫は僧坊から講堂への渡り廊下を進み、外へ出た。

(あの後ろ姿は……)

講堂の縁側に、藍色の髪と大きな背中が見えた。河上万斉が三味線を奏でているのだった。

何か唄を歌うでもなく、彼は戯れるように、指先を巧みに操って三味線を弾いている。朝靄のかかる明け方、外に響く三味線の音色はどこか幽玄であった。


薫は離れた場所から万斉の様子を見ていたが、やがて音色が止まったかと思うと、

「立っておらずに、座ればよい」

と、万斉の方から催促をしてきた。
薫は彼との間隔をたっぷりおいて座り、尋ねた。

「こんな朝方から、いつも楽器を弾くのですか」
「拙者は酒は呑まぬし煙草もたしなまぬ。気晴らしは、戯れに弦を奏でることくらいにござる」

万斉は胡座をかいた膝の上に三味線を構え、撥(ばち)を握り、瞳を伏せて没頭していた。長い手指が、別の意志を持っているかのように実に器用に動いている。

「楽器の稽古というものは、毎日毎日、体に染み込ませるように続けなければならぬものでござる。肉体は覚えが悪いゆえ、一度に多くを学得させることより、続けることに意味がある。芸事も剣術も、似たものにござる」


暫く三味線を奏でた後、万斉は横目で薫を見て、言った。

「薫……と呼んでも構わぬか。御主は何ゆえ晋助と共にいる?」

そう尋ねられ、薫が万斉のことをよく知らないように、万斉も彼女自身を知らないのだと悟った。おそらく、晋助からも聞いてないのだろう。赤鬼寺で初めて逢ってから、彼女と万斉はろくにお互いのことを話していない。こうして二人きりで話すのも、初めてであった。

晋助が連れてきた男とは言え、信用できるとは限らない。にわかに知り合った仲で、どれほどの男か、吟味する時間は薫にはなかった。
彼女は微笑んで、嘘を言った。

「京の町で晋助様と出逢い、人知れず逢う仲となり、ここまでご一緒した次第です」

万斉は、ふっと笑いを溢した。

「口三味線を弾く、という言葉を知っているか。適当なことを述べて、相手に真意を悟らせないことを言うのでござる」

はぐらかしたことを見抜かれ、薫は決まり悪さに視線を反らす。
万斉は再び撥を手にして、言った。

「あの男の内面に潜む狂気は、並大抵のものではござらん。自らの目的の為から、人を殺めることをいとわぬ。
御主を護る為とは言え、あやつは数多のお役人の頚をはねたのでござる」

薫自身が知っていることでも、他者の口から聞くと、何とも残酷な事実だ。

「何故ああも非情になれるのか……理解に苦しむでござる。あんな男と共にいるとは、御主も見た目によらず肝が据わっているな」

万斉は、晋助が師や仲間を亡くし、この世に深い憎しみを抱くようになった過去を知らない。知り合って間もない人間に、胸の深部に眠る暗い過去まで、理解できようはずがない。

「万斉様こそ、その非情な方と、手を組まれるのでしょう。似た者同士という言葉をご存知ではないですか」
「非情、か……。相違ないでござる」


それから万斉は、三味線を弾く合間に、自らのことを少しずつ話始めた。
肥後の国で生まれたこと。各地を転々として、我流で居合いを会得したこと。いつの間にか、人斬りと呼ばれるようになったこと。

生い立ちを語る言葉は少なく、薫が分かったのはそれくらいのことであったが、彼の奏でる音色が何よりも雄弁に彼自身を物語っていた。
芯が強く、時に冷たい。人斬りと呼ばれる男の素顔は、穏やかに己自身を見つめられる人物であった。

「人を殺めることに迷いはないにしろ、ふとした瞬間に思い起こす罪悪感からは、何処へ行っても逃げられぬでござる。鍛練を積み重ね、剣の道を極めても、こうして楽器の稽古に没頭しても、その弱さは常に付きまとう。
拙者の手は……消えぬ血で汚れているのでござる」

一瞬、万斉の伏し目がちの瞳が、ひどく哀しい色をして見えた。
薫は、思わず腰を浮かせて口走っていた。

「そんなことは………!!」

弱さを自覚している、そのことこそが、人の強さのように思えてくる。

「そんなことはありませんよ。万斉様の手は、美しい音色を奏でられるんですもの。
決して、汚れてなどいませんよ」
「…………」

万斉は驚いた表情で薫を見たが、再び手元へと視線を落とした。



それから暫くして、赤鬼寺の住職や僧侶達が、次々に金堂に集まり始めた。勤行といって、本尊に祈りを捧げ読経を始めるのだ。
読経が始まれば、三味線の音色など聞こえなくなる。頃合いとみて、万斉が立ち上がり僧坊に戻ろうとしたので、薫も彼の後に続いた。

「昨日の……娘が御主を訪ねてきた時は、なかなか愉快でござった」

渡り廊下を歩きながら、万斉が言う。
薫はてっきり、来島また子が晋助を見て、顔を赤らめたことを言っているのだと思った。

「ええ、本当に。あの時のお顔……」
「晋助は…………」

だが、万斉は薫が言う側から、彼女の思惑とは異なることを言い始めた。

「晋助は御主のこととなると、普通の男の顔になるのでござるな。普段は獲物を前にした狼のように、何事にも牙をたてそうな眼をしているというのに。御主を心配する顔は、そこらの男と何も変わらぬ」

万斉は、薫の方を向いて柔らかく微笑んだ。

「愛されているのだな、あの男に」


薫は、何と言い返してよいのか分からず、ただ頬を染めて俯いた。
河上万斉という男の、その人斬りとしての顔こそ知らないが、普段の彼はいたって温厚で、優しげな人柄が滲みでていた。

それから朝方、万斉が三味線を奏でるときには、薫は彼の隣でその音色に耳を傾けるようになった。



(第二幕 完)
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