鬼と華

□鬼百合の唄 第四幕
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翌朝、寺の講堂から三味線の音色が聴こえてきた。
薫は知らぬ振りをして身支度を整えていたが、やはり昨晩のことが気になり、音の方へと向かった。

三味線を奏でる万斉の後ろ姿は、普段と何も変わらない。広い背中をじっと見つめていると、やがて音色が止んだ。

「もう、此処には来ぬと思っていた」

万斉は、そう言って薫の方を振り向いた。
薫は唇を噛んで、数度首を横に振る。万斉がどのような眼で己を見ていたか知っていたのに、拒まなかった自分自身にも責があるのだ。
彼女は万斉の隣に座り、単刀直入に尋ねた。

「知っていたのですか。晋助様のお師匠様のことを」
「……筆跡が、同じであった」

万斉は、手元の撥(バチ)を弄びながら答えた。

「晋助が、古ぼけた教本を肌身離さず持ち歩いているのは、御主も知っておろう。大切な者の遺した何かだと思っていたが……周山の遺品に同じ字の手紙を見つけ、もしやと思ったのでござる」

薫は、口をつぐんで万斉の横顔を見る。彼は晋助が、松下村塾で松陽から貰った教本の存在から、師の手紙だと推測したのだ。戦時中も手離さず、京に逃げてからも常に傍らに置いていた、松陽の教本。

「何故、手紙を捨てたでござるか」

今度は、万斉が薫に尋ねる番だった。

「捨てた訳ではありません……ただ、迷いがあってはならないと思ったのです」

薫は、言葉を選びながらたどたどしく言った。

「人を殺め、その手を血に染め……それでも晋助様は、壊すことをやめない。奪われたものが大きすぎて、罪という概念を忘れてしまっているから。
けれどもし、お師匠様の手紙を見たら……」

彼女は、膝に置いた拳にぎゅっと力を込めた。

「人の道とは何か、侍とは何か……晋助様がお師匠様から学んだことの全ては、私には推し量れません。ですが、お師匠様が晋助様に望んだあるべき姿を思い出せば、晋助様はきっと苦しまれてしまう。吉田松陽という男の存在はあまりにも大きくて、その影が少しでもちらつくなら、晋助様は立ち止まってしまう……」


晋助が敬愛した吉田松陽という人物を、薫は彼の語る塾での出来事からしか知り得なかった。温かく、時に厳しく……志をたてること、己の武士道を生きることを説いた師匠。
眼を閉じれば、松陽のことを生き生きと語る、晋助の表情が鮮明に蘇ってくる。だが、それはもう過去の晋助なのだ。あの頃に戻りたいと思っても、引き返せないところまで来ているのだ。


「希望を持たなかったでござるか」

やがて、万斉は薫の方を向き、ふっと笑って尋ねた。

「師の思いに再び触れて、あの男が……あの鬼が、復讐も憎しみも知らない少年の頃に、戻れるのではとは思わなかったでござるか」
「…………」

そこまで見透かされると、返す言葉がない。
薫はゆっくりと首を振って、万斉に訊き返した。

「私は、晋助様がこれ以上、変わってしまうのが怖いのです。万斉様なら、どうしましたか?」
「迷わずに手紙を渡すでござる」

万斉は、きっぱりと言った。

「拙者は、師の文を自ら破き、捨てる晋助が見たかったのでござる」


薫は、言葉を失い唖然として万斉を見つめた。なんと残酷な考え方をする男だろう。仲間を試すことに抵抗がないなんて。
いや……仲間など、晋助も万斉も、お互いに思っていないのかもしれない。佐久間周山という一人の男の暗殺により繋がった、暗くあやふやな関係なのだ。


その時、ふと、僧坊の方から晋助が歩いてくるのが見えた。煙管を片手に、万斉と薫のいる方をじっと見つめているようであった。

今すぐに、晋助の傍に行かなければならないと思った。
薫は万斉に向かって小さく頭を下げると、晋助のいる方へと小走りに向かった。



(第四幕 完)
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