鬼と華

□螢夜 第三幕(後編)
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梅雨の季節が到来してから、じめじめとした雨の日が続いていた。

小雨の降る午後、薫は留守を鈴に任せて外出した。どんよりとした雨空とは対称の、水色の明るい江戸小紋に、白地に大柄の花模様の帯を締めた。晴れ空を思わせる、爽やかな装いである。

番傘を差し屋敷を出てから、庭の梔子(クチナシ)が花を咲かせているのに気付いた。梔子は梅雨の真っ只中に咲く。緑葉に混じって咲く白い花は一際目立ち、誘うような独特な甘い香りがする。
香りを纏うように花を愛でたあと、彼女は屋敷をあとにした。


暫く歩き、薫が向かった先にあったのは、京の街並みには些か似つかわしくない、外国風の洋館である。ある人物に会うため、彼女はそこを訪れたのだ。
洋館に近付くと、正門の前で、門番が何やら声を張り上げているところに出くわした。

「さあ、帰った帰った!」

洋館の門には、多くの人々がつめかけている。だが、門番が彼らを追い払っていた。

「大村先生は、午後から大事な会合に出られるのだ!今日は、診ることはできんぞ!」

そこは、大村損次郎の屋敷であった。名医と評判の大村に診てもらおうと、町の者が診療に訪れているのだ。

門前払いされる人々を見て、薫は尻込みをした。暫くの間、人々が残念そうに帰って行く様子を遠巻きに見ていると、門番が薫に気付いて声をかけた。

「……何か、御用ですか」

門番は、薫を見る眼を変えた。彼女の身なりが、町の民とは様子が違っていたからだ。かつての師に敬意を払って、改まった装いをしてきたのが功を奏した。

「あの……大村先生にお会いしたいのですが。周防国湯田村の井上薫と仰っていただければ、分かっていただけると思います」

薫が頼むと、門番は屋敷の使用人に取り次いでくれたようである。彼女は大村と、短い時間の面会を許された。



◇◇◇



それから薫は、豪奢な家具で調えられた西洋風の客間に通され、革張りの椅子に腰掛けて大村を待った。
暫く待った頃であった。

「やあやあ、薫君か!」

抑揚のきいた声がして、大村が部屋に入ってきた。
恰幅のいい体に、開国以後に普及した洋服の背広を着ている。身に付けているものから、新しい文化の風を感じるようであった。

「お久しぶりでございます!大村先生!」
「いやあ、見違えたな。すっかり綺麗になって」

薫と大村は、師弟の関係でもあり同郷であった。故郷のことや、明倫館にいた頃の昔語りに花が咲く。

「そう言えば、晋助君は元気にしているかい。君らは揃って優秀で、兄弟のように仲がよかったものなあ」

と、大村は懐かしさに目を細めた。
藩校明倫館での成績は、晋助が常に一番で、その次が薫だった。
とりわけ、晋助の習得の早さには教授達が才を見いだし 、彼は明倫館きっての秀才と言われていた。いずれは相当の役職をもって出仕を願いたいと言う意見もあったが、彼は辞退して、吉田松陽に学ぶ道を選んだ。その際、大村は根気よく晋助を説得し、最後まで出仕を勧め続けていた人物のひとりだ。

昔の話題が一段落し、大村は葉巻に火を付けながら薫に尋ねた。

「さて……私を尋ねてくるとは、どういう風の吹き回しかな」

薫は、きゅっと唇を結ぶ。勿論大村を訪ねたのは、昔語りをするためではない。
彼女の目的はひとつ。どうしても、大村に訊きたいことがあったのだ。

「先生の評判を聞き、大変恐れ多いのですが……折り入って、ご相談があります」

薫は、真っ直ぐに大村の目を見つめた。

「ある人の、失明した眼を取り戻したいのです。私は、眼など失っても惜しくありません。私の眼を、移すことはできないのでしょうか……」

薫の言葉に、大村は暫し口を閉ざしてしまった。
黙って葉巻を吸いつつ、やがて重々しく口を開く。

「……近頃、見慣れぬ若い男を、街で見たという噂を耳にしたよ。隻眼で細身、京の女達が色めき立つような艶男と聞く。……晋助君が、君と一緒にいるんだね」

薫は、小さく頷いた。すると大村は、

「残念だが、今の医学では、その手術は無理だ」

と言った。

「表面の角膜の移植ならまだしも、眼球そのものとなれば、血管や神経をも繋げなければならない。それは、困難を極める手術だ。形として目を与えることはできても、視力を取り戻すことは不可能だよ」

医師らしいはっきりとした物言いに、薫が小さく肩を落とすのを、大村は黙って見守る。やがて、彼は薫を覗きこむようにして尋ねた。

「君達は恋仲にあるんだろう?愛するもののために、己を捧げたいと思う気持ちは、わからなくもない。だが、そこまでして、晋助君が喜ぶとは思えない。
一体何を持って、晋助君の視力を取り戻したいんだい?」

薫は少し迷ってから、おずおずと打ち明けた。

「晋助様は、攘夷戦争で目を負傷しましたが……今、再び剣を取ろうとしています。隻眼の剣士など、片方の腕がないようなもの。このままでは、敵に容易く、討ち取られてしまう気がしてならないのです」
「薫君、悪い方に考えてはいけない」

大村は、すぐに薫の思いを否定した。

「昔のことだが、完全に視力が無い剣士の話を訊いたことがある。彼は、心の眼で相手と対峙するそうだ。勿論、本当に胸に眼がある訳じゃない。嗅覚、聴覚……視力を補おうと、他の感覚器が鋭く反応するのだそうだ」

大村は薫の両肩にしっかりと手を置き、彼女の眼を見つめた。

「簡単に、不利だと決めつけてはいけないよ。私は剣のたしなみはないが……きっと、素人には解らない境地があるのだろう。晋助君を信じなさい」

薫は項垂れたまま、曇天の下で竹刀を振る、晋助の後ろ姿を思い出した。

攘夷戦争の終わりに、晋助は薫を庇って片眼を失った。ずっと、引け目に思っていた。いや、引け目というには足りぬ、取り返しのつかないことをしてしまったと思っていた。

だが、視界の半分が闇であっても、晋助の持つ強靭な精神と、幾戦もの激闘をくぐり抜けた肉体は、衰えるものではない。彼の強さは、薫は一番に知っているつもりでいた。それに、どんな境遇にも立ち向かう屈強な侍の心は、前にも増して、強固なものになっているはずだ。


大村は京で暫く滞在した後に、また長州に戻るという。
望みは消えた。だが、嘆くことはない。そう思いながら、薫は大村の屋敷を後にした。


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