鬼と華

□鬼百合の唄 第三幕
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夏の雨は馬の背を分けるという言葉がある。馬の背中が半分濡れていて、もう半分は濡れていないというくらい、局地的に雨が降ることを言う。
赤鬼寺のある山は、まさに突然の激しい雨に降られていた。入道雲からの雨が、夕立となって降り注いだのだ。

薫は、濡縁から雨の降る様子を眺めながら、松陽の手紙を読み返していた。手紙を見つけてからというもの、人の居ない時を見計らっては、何度も何度も目を通している。
読む度に、まさに晋助のことを思わずにはいられない一節がある。


『 主君に忠誠を尽くして生涯を捧げる、それが武士の美しい生きざまだと昔から考えられてきました。ですが、長きに渡った鎖国時代が終焉を迎え、国や藩の在り方は刻々と変化し続けています。

これから先、どんな時代の波にあっても、例え国や主君が滅ぼうとも、我々武士が生きていくにはどうしたらよいのか。素性や身分などに意味が無くなっても、我々は己を律し、理想とする姿に向かって強く生きていかねばなりません。その為には、志をたてることが全ての源となります。己の武士道を貫くという志が、若い世代には求められるように思うのです。

幼い子どもらにとって、この先激動の時代が訪れるでしょう。私は彼らに無限の可能性を託して、彼らの行く先を見届けたいのです。……』


それから、松陽は松下村塾と呼ばれる私塾を開くことを決意したようだった。周山から学び自らが得た知識を、少しでも多く伝えていきたい……手紙は、そんな報告で終わっていた。

松陽が自ら私塾を開いたのは、彼なりの武士道あってのことなのだ。
思い返せば、松下村塾では、士族などという身分に関係なく、農民や町人の子らであっても、門戸を叩くものには分け隔てなく学問や剣術を施していた。
それは、武士道というには曖昧な輪郭のものだけれど、松陽の精神は確かに弟子たちに受け継がれている。晋助。銀時。小太郎。彼らの生きざまには、松陽の教えが息づいている。

(晋助様が鬼兵隊も創設したのも、きっと……)

攘夷戦争時代、晋助の組織した義勇軍、鬼兵隊は、士族の身分に限らず、農民や商人の身分も多かった。 手習いを受けていない者も多く、読み書きの 出来ない者もいたが、晋助は彼らには平易な言葉で話し、戦法なども根気よく教えていた。

同じ志を持つものに、身分など問わないのだ。 それは、師の松陽が、広く門戸を拓き、塾生を受け入れたことに変わらない。
晋助は晋助の思いで、仲間を侍として迎え、共に剣をとり闘った。そして鬼兵隊は、まさしく鬼のように強いと言われ、他に追随を許さない屈強な軍となったのだ。

けれど、師を失い、仲間を失った今となっては、晋助の武士道は何処にあるのか。憎しみと復讐に取り憑かれた鬼となり、世界を壊す、そんな野心を抱いている。復讐のため周山を殺めた、晋助の所業を知ったら、松陽はどう思うだろうか……



「考え事にござるか」

気配もなく後ろから声がして、薫は我に返った。万斉が、三味線を片手に立っていた。

「座っても構わぬか。此処は雨に当たらぬし、風の通りがよく涼しい」
「え、ええ……」

薫は、手紙を慌てて懐にしまい、そ知らぬ素振りをした。
万斉は胡座をかくと、三味線を構えて片手に撥を握った。音色を調整するように、音の響きを確かめながら弦を鳴らしていく。

ザアザアとした雨音に混じって、三味線の震えるような音色が辺りに響く。幻想的な、何とも言えぬ趣がある。
薫は、思わず目を閉じた。

「綺麗な音……」
「拙者が剣以外に得ているのは、戯れに三味線を弾くことくらいでござる。女人の密やかな悩みを察することは、拙者には難しい」

万斉はそう言って、撥を握る手を止めた。薫がひとり思い悩んでいるのに、気付いたらしい。

「このところ、浮かぬ顔をしている。晋助との間に、何かあったか?」
「…………」

薫は、曖昧に笑って万斉を見つめた。晋助以上に、この男の前では隠し事が見破られてしまう。

だが、周山の遺品の中から見つけた手紙のことなど、万斉に話したところで何になろうか。晋助が松陽へどんな思いを抱いていたかは、薫ですら言葉にするのが難しいのだ。

その時だった。激しい雨足が急に弱まり、空から光の筋が差し込み始めた。木々の間から無数の光が零れて、木の葉から滴る雫を照らす。その小さな目映さは、空の晴れ間へと伸びるように広がっていった。
思わず見とれてしまうほどの、夏の空の変化だった。


「人は……変わるものなのですね」

薫は、呟くように言った。

「気紛れに降る、夏の雨のように……。
生きていれば、晴れ晴れとしている時だけではなく、悲しみの雨に暮れて絶望の淵に立つこともある。人は苦しみを乗り越えて強くなる、私はそう思いますが、大きすぎる悲しみの塊は、憎しみへと姿を変え、己を破壊に向かわせてしまうのです」

晋助が少年の頃、松陽の元で学んでいた姿を、薫は鮮明に覚えている。師を語る熱い眼差し、仲間と共に剣術に打ち込んだ姿に、薫は恋心を抱いたのだ。

晋助がどう変わっても、彼への想いは変わらない。だが、願わくばあの頃のような少年と少女に……憎しみや世の儚さを知る前の晋助を、純粋にお互いを愛していた時を取り戻せたら、どれだけ幸せだろう。


「万斉様……初めに出逢った時、私にこう言いましたよね。見かけによらず、肝の据わった女だと」
「ああ」
「晋助様についていく、そう決めた時から、鬼にも蛇にもなる覚悟は出来ています。ですが……
美しい想い出は、いつになっても捨てることはできません。年を経れば経るほど、切ないほどに鮮明になっていくのです。あの頃に戻りたいと願っても、もう叶わないから……」

木々の間から覗く太陽は、燦々と照りつけて、すっかり夏の様を取り戻していた。


それから薫は自室に戻ると、着物をしまってある箪笥を開けた。そして松陽の手紙を、誰にも見つからぬよう、一番下の着物の袖にそっと隠した。



(第三幕 完)
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