鬼と華

□精霊蜻蛉 第二幕
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サアア……と雨が川をうつ音が、明け方から続いている。
晋助と薫が嵐山に滞在して、三日目の朝を迎えた。前日に料亭で暗殺現場に出くわしてから、二人は騒ぎになる前に早々鬼灯屋へ戻ってきたが、それからというもの、薫は気分が悪いと言って宿に籠りっきりだった。

「晋助様……嵐山にいるのは、もうやめにしませんか」

雨の大堰川に目を向けながら、彼女が沈んだ声で言う。

「あんなことがあってからでは、何処へ行くのも怖いわ」

晋助と二人で気儘に町を歩き、のんびりと食事をする。そんな心踊るような旅の日が、一瞬にして台無しにされてしまったのだ。料亭の障子がバッと鮮血に染まる様は、薫の目に焼き付いて離れなかった。
一方晋助は、煙管を片手に何か思案している様子である。やがて、灰を落としながら独り言のように呟いた。

「妙だと思わねェか、薫」
「えっ?」
「あんな小わっぱが、お役人を刺殺した上に斬奸状を残して去るなんて。誰かの指図でやったとしか思えねェ」

白昼の料亭で刺殺されたのは、奉行所の与力であった。その下手人であり、亡骸に斬奸状を叩きつけて去ったのは見るからに年端もいかない少年。晋助は、それに違和感を感じているのである。
それからカンと音をたてて最後の灰を落とすと、彼は立ち上がって羽織を取りに行った。その背中を、薫は不安げな眼差しで追う。

「晋助様……何処かへ出掛けるのですか」
「胸騒ぎがする。少し、町の方を見てくるが……」

お前はどうする、と晋助が尋ねてくるのを予測して、薫は唇を噛んで首を横に振った。小雨で底冷えのする日のうえ、またおぞましい事件に遭うのではないかと思うと、どうにも気乗りしなかった。

「お前が退屈しないように、女将に言い置いておこう」

晋助はそう言って微笑み、編み笠を被って外出の仕度を整えてから、番傘を手に出掛けていった。

ひとり宿に残された薫は、障子を開けて外の様子をぼんやりと眺めた。晴天では目が眩むような鮮やかな紅葉も、雨空の下では翳ってくすんだ色に見える。一人きりの部屋はがらんとして広く、心細さが募る一方だった。



◇◇◇



昼時が過ぎても、雨はしとしとと降り続いていた。
手持ち無沙汰な薫は嵐山の露店で買ったトンボ玉の簪を眺め、ぼんやりと考え事をした。今頃、また子や万斉は、江戸への旅路にあるだろう。どのあたりにいるのだろうか。江戸へ行くには気が進まないにしろ、こうして一人きりで時間を持て余すことになるならば、江戸への道中また子と一緒に賑やかにしていた方が良かったかもしれない。


そんな風に考えていた時、部屋を訪ねる者があった。

「失礼いたします」

鬼灯屋の女将であった。

「なかなか、晴れませんねえ。こう鬱々とした天気では、せっかくの紅葉も見映えしないものです。わたくし共も、雨は好きません」

女将が朗らかな声で話す後ろから、女中が乱れ箱を手にして入ってきた。黄葉が描かれた蒔絵の乱れ箱には、香匙や銀葉ばさみなどの火道具が入っており、女中は畳に打敷を敷いて手際よくそれらを並べていく。
一体何が始まるのかと、薫が怪訝そうに眺めていると、

「“香道”という言葉をご存知ですか?」

と、女将が香炉を手に微笑んだ。
清水焼とおぼしき焼き物で、黒地に金色の秋草が揺れる様子が描かれている、美しい香炉だった。

「お連れ様が、“退屈しないように、何か楽しめるものを”と仰ってお出掛けになりましたので。わたくしめの趣味ではありますが、香道を少したしなまれては如何ですか?」

香道とは、決まった作法のもとに香木を焚いて、香りの違いなどによって詩歌や情景を鑑賞する芸道のことだ。
茶道や華道に比べて馴染みがなく、初めて間近で見る香道具に、薫は興味をひかれて女将の側に座った。

「随分色んな道具があるのですね」
「これらは七つ道具と言われていて、お手前をする際に、香木の扱いや火加減の調節に使うのですよ」

女将は道具をひとつひとつ手にとって、使い途を説明した。

「昔は大名や公家の嫁入り道具に、豪奢を極めた香道具が造られたものです。昔の人たちは、香の効用を“香の十徳“と呼びまして、心を清めるだとか、汚れを取り除くだとか言って、香を重用したのですよ」

それから、女将はしなやかな手つきで香木を焚き、香炉を手にして薫に見せた。

「香の“聞き方”にはお作法がありましてね。見ていてくださいまし」
「聞き方……ですか」
「香は、嗅ぐのではなく、“聞く”というのです」

女将が微笑み、右手でとった香炉を左手に乗せ、反時計まわりに聞き口を手前に向けた。右手で香炉を覆うようにして、香炉を水平にして聞く真似をする。

「聞く時は、ゆっくり三息してくださいまし」

薫は香炉を背筋を伸ばし、香炉を傾けないようにしながら、深く息を吸い込んだ。鼻を抜ける甘美な香り。全身が香りに包まれるような心地好さに、瞳を閉じてもう一度吸い込む。先程よりも強い。意識の遠い所から、匂いが漂ってくるような気がする。
三度目。ふっ、と気が遠くなったかと思うと、全身の力がするすると抜けていった。手から音をたてて香炉が滑り落ちるが、それすらも何とも出来ない。

前のめりに倒れこんだ薫を、女将と女中が両脇から抱えた。

「どうぞ、安らかな眠りを」

女将の声が聴こえたのを最後に、薫は甘い香りのなかで意識を手離した。


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