鬼と華

□精霊蜻蛉 第二幕
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「お帰りなさいませ」

勤皇党の隠れ家から鬼灯屋に戻った晋助と薫を、女将と女中が丁重に出迎えた。時は丑三つ時というのに、きっちりと着物を着て紅をひいている。その完璧な笑顔を、薫は睨まずにはいられなかった。
香木と偽って催眠薬を嗅がされ、拉致されて交渉の道具に使われたのだ。前日にも増して散々な一日だった。


晋助が勤皇党の使者と乱闘を繰り広げた部屋の中は、壊れたものも含めて全て元通りに整えられてあった。洗いたての清潔な寝具が敷かれ、風呂には熱い湯が沸かしてある。だが、初めて訪れた時は居心地好いと感じたそれらのものが、今は全て猜疑の現れに見えてしまう。鬼灯屋の女将が土佐勤皇党に通じているのは明らかな上、女将だけではなく、女中にも武市の配下の者がいるに違いない。完璧な部屋の中も、香木を炊いた残り香だけは、消えずに残っていた。


薫は意味もなく部屋の中を歩き回りながら、憤慨して晋助に訴えた。

「宿にも仲間が潜伏していたなんて……。きっと、私達がここへ来た時からずっと見張っていたんだわ。晋助様、見つからないように、夜のうちに逃げてしまいましょう」

晋助は、いや……、と静かに頭を振った。

「迂闊に動くのは止めておく。こうも周到に罠を張るような真似をされちゃあ、危なっかしくていけねェ。あの野郎が指定した期日までは、此処に留まろう」

それから障子の側に設えられた座椅子にもたれると、煙管に火を点した。
紫煙が仄かに白く立ち上り、彼はくたびれた表情で一服していた。その様子を見つめながら、薫は彼に尋ねた。

「でも、その後晋助様は江戸へと行かれるのでしょう?万斉様が待っているもの……」

元々、江戸へ行くのに気乗りしなかった薫は、嵐山に滞在してからは赤鬼寺に戻ろうと思っていた。
だが、今回の件で分かった。ひとりでいれば、思いもよらぬ所で身が危うくなる時がある。どれだけ警戒していても、例えば大人数で襲われた場合、薫ひとりで乗り切る自信がなかった。

「晋助様が行くなら、私も江戸へ……」

薫が小さな声で言うものの、晋助の耳には届かないようだった。
彼は外の方に視線を向けたまま、暫く考えて彼女に尋ねた。

「薫……京から湯田村までは、どれくらいかかる?」
「…………!」

想定していなかった問いだった。湯田村とは、長州藩の薫の故郷である。
返す言葉が咄嗟に出てこない。彼女は唖然としてその場に立ち尽くしたが、晋助の思惑を察して恐る恐る口を開く。

「まさか、私を故郷に……」

薫は攘夷戦争以来、故郷の地を踏んだことが無い。家の者に勘当されるのを承知で、二度と戻らない覚悟を持って、晋助を頼って一人戦地へやって来たのだ。それからもう幾年にもなる。

「ご冗談を!!私が戦時中、どんな思いで故郷を出てきたのかお分かりですか!?今更、戻るなんて……!」

薫が激しく反論するのも、晋助はまるで聴こえない振りをするように顔を背けている。彼の表情が見えないことが、ますます薫の不安を煽った。
彼の考えが、分からない訳ではない。京にいても江戸にいても身の危険から逃れられないならば、せめて人の目が一瞬一時も絶えない場所へ。恐らく、そう考えているのだ。

「晋助様、本当に……私を、湯田村に帰すおつもりですか」
「帰すなどと言うのはやめろ」

晋助が厳しい口調で言った。

「今回の件で身に積まされた。俺と居る限り、お前にも常に危険がつきまとう。いつお前が標的となって、拐われて命を落としてもおかしくはない。
それも……俺の知らない所でだ!」

ガッと大きな音がして、薫はびくりと肩をすくませた。晋助が、拳で障子の枠を強く叩いたのだ。血管が浮き出るほど強く握られた拳は、カタカタと小刻みに震えていた。
迂闊に拐われた薫への怒りか、誘拐により晋助を誘きだした武市への怒りか、それとも謀にかかった自分自身へか。


顔を見て話がしたい。
薫は切にそう願った。無事なのだと。二人共にいれば、恐れることは何もないと。お互いの眼を見て話せば、きっと分かる。

だが、晋助は外に目を向けたまま、非情にも薫の思いを切り捨てた。

「冷静な判断が鈍る。……一人にさせてくれ」

薫は足許が崩れゆくような思いで、晋助の姿を見つめた。

世界を相手取る、晋助の野望の前では、自分などちっぽけな存在になるのではないか……漠然とした不安が、現実のものとなってしまった。このまま側に居続ける、そのことで晋助の足枷になるならば、己の存在に意味はあるのだろうか。愛している、それだけの理由で側にいることが、己のすべきことなのだろうか。

薫の頬を、一筋の雫が伝う。彼女は物音を立てないように踵を返すと、静かに部屋を後にした。



(第二章 完)
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