鬼と華

□精霊蜻蛉 第三幕
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「薫」

晋助の声が聴こえる。
熱っぽく、欲情に濡らされたような声。

手のひらには、晋助が動く度にしなやかに波打つ、肩胛骨や上腕の筋肉の感覚。そのひとつひとつが躍動し血が巡るのを、薫は全身で受け止めるように感じていた。

「お前は、俺のものだ」

晋助の薄い唇が、愛の詞を紡ぐ。
躯も心も溺れた夢のような出来事。あれは夏の終わり、白露が落ちる夜。初めて晋助に抱かれた日……




(……夢)

薫はぱっと目を醒まし、ぼんやりと天井を見つめた。
旅籠の一室、彼女一人がやっと寝れるだけの狭い部屋は、凍えそうなほど寒い。薄い蒲団にくるまって横を向き、身を縮める。

(こんな風にひとりで目覚めるのは、一体どれくらい振りかしら)

両手で冷えきった頬を覆うと、ひんやりとした感覚に混じって、肌に涙の跡が残っていた。夢の出来事を反芻する彼女の心は、夢とは相反して暗く荒んでいた。


ここは、京都市中の古い旅籠。
晋助と口論になった薫は、お互いのほとぼりが冷めるまで暫く距離を置こうと、ひとり鬼灯屋を出てきた。移動できるだけ歩いて、京都市中の古い旅籠を見つけた。行商でもない女の宿泊を奇妙に思われても仕方ないと思ったが、老いた主人は快く彼女を迎え入れてくれた。


目覚めた薫は身支度を整えようと、部屋を出て水場へ向かう。まだ他の客は眠っているようで、廊下を歩くたびにギシ、ギシとやけに足音が響いた。

「おや。お早いですね」

水場では、旅籠の主人が雑巾を絞っていた。

「これからお帰りですか」
「ええ……」
「京の紅葉は楽しまれましたか」
「はい。紅葉なら、もう十分に」
「この近くの等持院のお庭は、秋は特に見事ですよ。朝の時間ならまだ人もいないでしょうし、散策にはいい所ですよ」

次々に問いを投げ掛ける主人の様子を、薫は答えながらもじっと観察した。
彼女の心には、武市変平太の言葉がずっと引っ掛かっていた。“いつ、いかなる場所からも、配下の者が目を光らせている”。武市がそんな事に言って脅してきたので、彼の手の者につけられてはいまいかと心配だったのだ。
しかし、いくら道行く者や旅籠の者を疑っても、武市と繋がっているかどうかなどわかるよしもない。ただひとつ確信しているのは、彼が欲しいのは薫でなく、晋助だ。彼の知性や剣術の腕。そして晋助は今頃、武市との共闘の是非を考えている。


部屋に戻り、髪を整えようとした薫は、風呂敷の中から木の櫛を取り出した。鏡のない部屋で、俯いて髪をとかしながら、ふと蜻蛉をあしらった螺鈿の櫛を思い出す。晋助から贈られたものだが、わざと鬼灯屋の鏡台に残したままにしてきた。
晋助の影がちらつくものは、全て鬼灯屋に置いてきたつもりだった。しかし、どうだろう。

(私は……自分で決めて、一人で出てきたというのに……)


薫の中には、どうしても振り切れない契りがある。

“ずっと、隣に”

そんな風に晋助に誓ってから、幾度の季節が巡っただろう。まさかこんな事で、ふたりの間に亀裂が入ろうとは思いもしなかった。


薫が晋助の元を離れたのは、彼女自身の意思だ。このまま側にいては、彼が今後について判断を下すとき、己の存在が邪魔になってしまうと考えたからだ。けれど夢の中でも目覚めても、晋助のことが頭から離れない。今頃、何をしているだろうか。何も言わずに出ていったことを、どんな風に思っているだろうか。薄情な女だと、愛想を尽かされてはしないだろうか。
武市と手を結ぶかは別にして、晋助が江戸に行った場合は、もう幾月も離れることになってしまう……


(自分がこんなに弱い人間だったなんて)

薫はのろのろとした手つきで髪を結わえ上げ、深い溜め息をついた。繰り返し繰り返し、晋助のことばかり考える自分に嫌気がさす。

気分を変えなければ、この感情の悪循環からは脱け出せない。彼女は身支度を整えると、旅籠の床掃除をする主人に声をかけた。

「あの。御主人、すみません」

気分を新たに、外へ踏み出さなければ。

「先ほど仰っていた、等持院への行き方を教えていただけませんか」


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